ある日、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的にでかい音で、きちがいヘビメタを鳴らし始めたのに、みんな、俺のことを悪く言う。
俺のほうに落ち度があるからそうなったと言うのだ。影響をうけないことは可能なのに影響をうけたからダメなんだと言うのだ。
こんなのは、ない。
彼らには、きちがい家族による、きちがい的な騒音というハンディがない。彼らには、きちがい家族による、きちがい的な騒音という条件がない。ぼくにはある『条件』が、彼らにはない。
もちろん、彼らにはある条件が、ぼくにはないということはある。彼らには、ぼくにはない「マイナスの条件」があるかもしれない。まあ、おなじ環境の人はいないので「あるかもしれない」のではなくて、「ある」のだろう。
しかし、彼らにだって、マイナスの条件があるのだから、「おなじだ」ということにはならないのである。どうしてかというと、『条件』それ自体がちがうからだ。
ものすごく影響をあたえる条件とそんなには影響をあたえない条件がある。
条件という場合、条件自体に含まれているけど、持続期間という条件だって、影響をあたえる。
ひとくちに騒音といっても、どういう質の、どういう音量の騒音が鳴っていたのか? ということは、非常に重要なことだ。
そして、騒音の持続時間や、騒音の持続期間というのも、非常に重要なことだ。騒音の持続時間というのは、一日のなかでの騒音の持続時間のことだ。騒音の持続期間というのは、人生のなかでその騒音が鳴っていた期間のことだ。
人生のなかで、その騒音が毎日鳴っていたのか、それとも、平日だけ鳴っていたのか、日曜日だけ鳴っていたのかということも重要だ。これは、騒音の頻度ということにしよう。
ともかく、騒音の質、騒音の音量、騒音の持続時間、騒音の持続期間、騒音の頻度がちがえば、ちがう条件が成り立っていたということになる。
この場合は、『騒音の条件』ということになるだろう。
Aさんの家でも、騒音が鳴っていた。Bさんの家でも騒音が鳴っていた。だから、「おなじだ」と言えるのかどうか。おなじとは言えない。言えないのに、「おなじだ」と言ってしまう人たちがいる。たくさん、いる。
その人たちはみんな、口をそろえて「自分だって、騒音ぐらいあった」と言うのだ。「自分だって、騒音ぐらいあった」とひとこと言えば、騒音の質を問わずに、おなじぐらいの騒音があったというとになってしまうのである。
「騒音」ではなくて、「苦労」でもおなじだ。
「自分だって、苦労した」とひとこと言えば、苦労の質を問わずに、おなじぐらいの苦労をしたというとになってしまうのである。
けど、これは、誤解だ。まちがいだ。まちがった認識に立ってものを言っている。
どういう苦労がしょうじたのかということは、根本的に大きな問題なのである。苦労という抽象度の高い言葉で、「苦労した」と語れば、それで、根本的なちがいが、なくなるわけではない。
ところが、「根本的なちがいがなくなった」と誤解して、「根本的なちがいはない」という前提で、いろいろなことを言いだすのだ。
* * *
はっきり言ってしまうと、「条件なんて関係がない」と言ってしまう人は、たいした苦労をしてないんじゃないかと思う。
ものすごい苦労をした人が、そんなことを言うとは、思えない。
「過去なんて関係がない」と言う場合もおなじだ。
過去において、とてつもなくひどい条件下で暮らした人が、「過去なんて関係がない」と言うとは、思えない。
まあ、その人たちだって、ぼくが経験してない苦労をしたということは、言える。
あることにかんしては、ぼくのほうが条件がよくて、彼らのほうが条件が悪かった。……こういうことだって、当然ある。
けど、条件の質は、重要なんだよ。どういうことにかんして、どういう条件が成立しているのかということは、非常に重要だ。
無視していいわけがない。「関係がない」なんて、とてもじゃないけど、言えない。