たとえば、「楽しい楽しい」と言うことで、一(いち)だけ、ストレスを解消できるとする。その場合、一日に一〇〇個のストレスを感じる出来事があった人は、「楽しい楽しい」と言うことで九九のストスレ量にできる。
一個のストレスを感じる出来事のストレス量を一だとしたばあいの話なんだけど……。
一日に一個のストレスを感じる出来事があった人は、「楽しい楽しい」と言うことで〇(ゼロ)のストスレ量にできる。その人の場合は、「楽しい楽しい」と言うことで、ストレスを感じなくなる。
しかし、一日に一〇〇個のストレスを感じる出来事があった人は、九九のストレス量を感じているので、当然、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくはならない。
これは、「楽しい楽しい」と言うことで、一だけ、ストレスを解消できると仮定し、さらに、一個のストレスを感じる出来事のストレス量を一だと仮定した場合の話だ。
けど、実際には、人によっては、「楽しい楽しい」ということ自体がストレスになってしまう場合だってある。「楽しい楽しい」と言うことで、一(いち)だけ、ストレスを解消できるという仮定は、現実的ではない。
ぼくが言いたいのは、条件に差があると、その行為をしたとしても、残るストレス量に差があるということだ。これは、ようするに「俺だって苦労した」とか「私だって苦労した」というような言葉では、無効化できないことだ。
だって、もとのストレス量に差があるのだから、そのストレス解消法で、ストスレが解消できるとは限らない。
けど、言霊主義者や努力論者は、最初から、条件の差を無視しているのである。
だから、言霊主義者や努力論者は「自分が言ったストレス解消法で、ストスレが解消できる」と言うけど、それは、条件の差を無視したから、言えることなのである。
「楽しい楽しい」と言うことで、一だけ、ストレスを解消できるという、ものすごくあまい設定でも、ストレスを解消できない人が、出てきてしまう。条件を無視する人は、条件がもたらす、ストレスの量を無視してまう。
だから、「こういう方法で解消できる」と言ってまう。
けど、実際には、解消できない場合が多数ある。
何度も言うけど、「こういう方法」をやることがストレスをうみだしてしまう場合だってあるのだ。「俺だって苦労した」とか「わたしだって苦労した」というようなことを言う人は、実際にはある条件の差を無視してしまう。これは、問題がある態度だ。