ヘビメタ騒音のハンディを無視する人間やヘビメタ騒音のハンディを過小評価する人間のことを、クソ凡人と呼ぶことにした。クソ凡人は、ほんとうに、クソ凡人だ。
どうしてかというと、想像力がないから、ハンディの大きさを無視してしまうのに、ぼくのことを、バカにしてくるからだ。
これ、バカにしているんつもりがないのかもしれないけど、ヘビメタ騒音を鳴らされたにしても、できると思っている人間は、ぼくのことをバカにしていることになる。
ようするに、自分だったら、ヘビメタ騒音のハンディがあったにしろ、そのくらいのことは、できるはずだという前提のもとに、発言をしているのである。バカにしていると言える。
できると書いたけど、なにができるかということについて、書いておこう。
たとえば、「遅刻をしないで通勤することができる」ということや「そのくらいの騒音のなかで勉強することができる」ということや「騒音にさらされていたとしても、宿題ぐらいできる」ということや「そのくらいの騒音にさらされ続けたとしても、通勤して働くことができる」ということだ。
あるいは、「そういう騒音にさらされたとしても、楽しいと感じる能力をうしなわずに生きることができる」ということだ。全部、自分の人生に、なかったことだから、そういうふうに思えることなのである。見積もりの量がちがうんだよ。
一瞬一瞬のハンディだけを考えたとしても、きちがいヘビメタの音はひどすぎる。きちがい兄貴の態度は、ひどすぎる。きちがい兄貴の感覚はひどすぎる。腹がたたないわけがないだろ。そういう、きちがい的な感覚で、自分がやっていることを認めずに、きちがい的にでかい音を出し続ける家族がいるということ自体が、たえられないことだ。頭にくることだ。
きちがい兄貴が、つねに、ぼくの能力をうばっているのに、きちがい兄貴がいない人間が、そのことを過小評価したり、そのことを無視して、「できる」という前提でものを言ってくることは、ぼくにとって、くやしいことであり、腹だたしいことだ。
ほんとうに、できないからだ。ほんとうに、できなくなるからだ。
こいつらが、ほんとうにできないということや、ほんとうにできくなるということを、理解してないだけなのだ。
どうして理解しないかというと、経験がないからだ。そりゃ、こいつらの家族は、うちのきちがい家族とはちがう。うちのきちがい家族とはちがう感覚をもって生きている。
だから、うちのきちがい家族が、絶対の意地で、やるようなことを、やらない。やられてないから、わからない。やられてないから「できない」状態になってない。それだけだ。ところが、偏見があると、バカにしてくるのである。