きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴が鳴らした音量とおなじ音量で、きちがい兄貴が鳴らした時間、きちがい兄貴が鳴らした期間、ずっとずっとずっと、その人がきらいな騒音をずっと聞かされ続けたら、「できなくなる」のに、実際に自分が経験したことではないので「できなくなる」ということがわからないままなんだよなぁ。
だから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」などと言ってしまう。言霊主義者は言葉に出して言うけど、言葉には出さないけど、そう思う人もたくさんいる。時間があるんだよ……。やられた時間がある。どうしようもない時間がある。その時間の積み重ねで、できなくなったんだよ。
それを、「できないと言うからできない」と言われたときの、気持ちがわかるか? 兄貴が、ずっと鳴らしていた。よそのうちでは、絶対に鳴らせないような音でずっと鳴らしていた。
どれだけ「しずかにしろ」と言ってもしずかにしなかった。
その積み重ねでできなくなった。
原因は「言うから」ではないのである。
ヘビメタ騒音が毎日毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、つみかさなったから、できなくなったのだ。「から」がまちがっている。理由を想定して言っていることなのだけど、想定がまちがっている。まちがった理由を想定しているのである。
こういうことを言う人は、きちがいヘビメタ騒音相当の困難を経験したことがないから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」などと言えるんだよ。こういうことを言う人は、「理解した」と言う。「ヘビメタがうるさかったんだろ」と言う。
たしかにそうなんだけど、「できなくなる」ということは、理解してない。
一日分のヘビメタ騒音でも、怒りが頂点のまま何時間も経過して、心身ともにボロボロになってしまうのに、それが、わかってない。
影響があるに決まっている。宿題をする能力があっても、鳴っていたら、宿題ができなくなるんだよ。
それを、「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」と言ったりする。
これ、どれだけ、くやしい気持ちになるかわかるか? わからないと思う。
「できると言えばできる」も「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」も、おなじように腹がたつ言葉なんだよ。無理解ぶりを発揮した言葉なんだよ。
「できない」ということを認めず、「できなくなる」という現実を認めず、無理難題を吹っ掛けてくる人が多かった。
俺だって、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、できたのぉ!!
それが、ヘビメタ騒音が鳴り始めて、できなくなったのぉ!!
ヘビメタ騒音相当の苦難がなかった人ができる」のは、むしろあたりまえなのである。ところが、「自分はできる。エイリさんはできない」という立場でものを言ってくる。ヘビメタ騒音相当の苦難があったら、あなただってできなくなっている。
それが、わからない。どうしてかというと、経験がないからだ。それを「俺だって困難はあった」「俺だって苦難を経験した」と言えば、同量の苦難を経験したことになってしまうのである。その人の頭のなかでは……。
言っておくけど、同量の苦難を経験したら「できると言えばできる」「できると言えばできる」「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」なんて言えなくなる。
どうしてかというと、できなくなっているからだ。
そんなのがまったく無意味だということを、きちがいによる騒音のなかで思い知らされているからだ。
これ、俺が騒音のなかで、なんとかがんばってやろうとした時間を、なんだと思っているんだよ?
その時間、ずっとくるしかったんだぞ。