『自分だって苦労した』ということを言う人がいるけど、その人が、普通に通勤通学している人なのであれば、その苦労というのは、普通に通勤通学できなくなるような苦労ではないということなのだ。
『自分だって苦労した』という言葉で、すべてを均一化して、自分だって、エイリさんのヘビメタ騒音と同等の苦労をしたけど、通勤通学してがんばっているということを言う人たちがいる。
けど、この人たちは、まったくわかってない。
たぶんだけど、ずっと小さい苦労を、同等の苦労だと思っている。
どうしてかというと、ヘビメタ騒音を経験した人は、そんなことを言わないからだ。
人生のなかで、六か月間だけ、ぼくと同等のヘビメタ騒音の苦労をした人とあったことがあるけど、その人は、そんなことは、言わなかった。わかっているから言わないんだよ。「自分は六か月間だけだったけど、ほんとうにつらかった」と言っていた。
ちゃんとわかっている。
一日だって、どれだけこまるか、まったくわかってない人たちが「そんなのは関係がない」「そんなのは影響がない」「過去は関係がない」と言ってヘビメタ騒音の影響を過小評価するということが、ぼくの人生のなかで、複数回、発生した。
そして、その人たちは、みんな……ほんとうにみんな……「自分だって苦労した」と言って、苦労を均一化してしまうのである。
けど、その人たちはみんな、普通に暮らしていて、通勤通学できないからだになってない。
たぶんだけど、ぜんぜんちがうと思う。
* * *
だから、まあ、こういう人たちとこういう会話をしてしまうこと自体、ぼくにとって、ものすごいマイナスなのである。
どうして、それがしょうじてしまうかというと、きちがい兄貴がきちがいで、きちがい的な意地で、きちがい的な音のでかさで、ヘビメタを鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、一日中、鳴らせる時間はすべて使って、鳴らしていたからなのである。
一日でも、被害が甚大だ。
実際、一日でも、被害が甚大だということが、わかっているから、ほかの人たちは、そういうこと……きちがい兄貴がしたこと……をしないのである。きちがい兄貴だけなのである。
あんなに意地になって、自分が鳴らしたい音にこだわてっこだわってこだわって、暇さえあれば、ずっと鳴らしていたのは、きちがい兄貴だけなのである。
逸脱行為なのである。
逸脱行為をずっとして「いいうち」なんて、そんなにはない。
だから、そういう意味でも、やはり、突出している。やっていることが、突出しているし、被害が突出している。
けど、ほかのうちに住んでいて、学校や職場などにくる人は、実際には、まったく、被害をうけてないということになる。被害の感覚を共有できるわけではないのだ。「よくあること」なら、被害の感覚を共有できるけど、「よくあること」ではないので、被害の感覚を共有できない。
そうすると、想像でおぎなって、被害を無視するということになってしまうのである。
そうなると、その人との関係は、うまくいかなくなる。その人と、ぼくの関係は、うまくいかなくなる。
これも、言ってみれば「認識」のハンディなのである。
きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを鳴らしたわけだけど、それが、世間ではないことであって、うちではあることなのだ。だから、ほかの人の「騒音」とぼくの「騒音」がちがうことになる。
けど、ほかの人は「騒音」と言ったら、自分が体験した「比較的、すぐに鳴りやむ騒音」「なんかの用事で健常者が出している騒音」しか経験したことがない。
きちがい家族による、長い長い長い、騒音は、人生のなかで、経験したことがないのだ。
なので、「騒音」と言った場合に、思い浮かべる「騒音」がちがうのだ。ぼくがヘビメタ騒音について語った場合も、普通の人は、 「比較的、すぐに鳴りやむ騒音」「なんかの用事で健常者が出している騒音」を思い浮かべるので、「自分の体験」の範囲では、被害が少ない騒音しか想像しない。想像できない。