努力についてちょっとだけ書いておく。これはもう、以前、書いたはずなので、軽く概要だけ書いておく。まず、「努力をする」というのは、じつは、一意に決まるものではない。これ、なにか、努力をするということが、一意に決まるものだと思っている人がいるかもしれないけど、これは、一意には決まらない。本人が「こういう行動をしているから、自分は努力している」と考えることはできる。しかし、それは、本人が「努力をしている」と思っているだけだ。他人がどう考えるかは、わからない。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、自分は、こういう行動をしているから、自分は努力していると思っているとする。けど、そういうAさんのすがたを見て、Bさんが、Aさんは努力してないと思った場合、Bさんのなかでは、Aさんは努力をしてないということになる。Bさんは、Aさんの努力がじゅうぶんではないと感じている場合は、「Aさんは、じゅうぶんな努力をしてない」と思うわけだ。Aさんが、ある資格試験に向けて、勉強をしているとする。勉強をしているので、努力していると思うかもしれない。けど、Bさんは、Aさんが勉強しているとは思うけど、じゅうぶんな努力をしてないと思うかもしれないのだ。あるいは、「じゅうぶんな」という部分をとって「努力をしてない」と思うかもしれないのだ。「そんなのは、努力のうちに、入らない」とBさんが、Aさんの行動について思うなら、Bさんのなかでは、Aさんは、努力をしている人ではないのである。だから、勉強をするということは、まあ、いちおう、客観的に勉強しているなら、勉強しているということにしておこう。これも、本当は、努力の場合とおなじことが成り立っているかもしれないけど、いちおう、今回は、客観的に勉強しているなら、勉強しているということにしておこう。なにを「努力」として認識するかによって、努力しているか、努力していないかが、主観的に決まってしまうのである。あくまでも、主観的に決まっているだけで、客観的には、努力しているか、努力してないのかは、決まっていない。ある人が主観的に努力していると思っている場合でも、その、ある人以外の人が、ある人は努力していないと思っている場合があるので、努力をしているかどうかは、一意には決まらない。
そして、『自分が好きで、やっていることは、努力をしていることになるのかどうか』という問題が、よこたわっている。これ、じつは、人によって感じ方がちがうのである。自分がやりたくて、やっていることは、努力なのだろうか、努力ではないのだろうか。ぼくの考えだと、自分が好きでやっている場合は、努力をしていることにならないと思う。どうしてかというと、好きでやっているからだ。「やりたいから、やっている」という場合、努力をしていることになるのだろうかというと、努力をしていることにはならないだろうと思う。努力をするというのは、なにか、自分が抵抗を感じることを、「つとめて」やることなのである……。ぼくのなかではそうだ。自分がやりたくてやりたくてしかたがないことをやっているときに、努力をしていることになるか? ぼくの感覚で言うと、ならない。そうすると、楽しいからやる……という場合は、努力をしているわけではないと、ぼくは感じてしまう。こどもがかわいいから、こどもをかわいがる……。こどもが、かわいいとは思わないのだけど、つとめて、こどもをかわいがるようにする。たんに、こどもがかわいいから、子供をかわいがっている場合は、努力をしているわけではなくて、こどもがかわいいとは思えないのに、その思いにあがなって、こどもをかわいがろうとする場合は、かわいがる努力をするということになる。なにか「やりたくない部分」があるのに、自分を説得して、無理やり、その行為をしている場合は、努力をしていると(本人が)感じるのである。他人から見て、……他人が見ているかどうかはわからないのだけど、他人が見て、ある人が、こどもをかわいがっているように見えるか、あるいは、ある人が、こどもをかわいがる努力をしているのかということは、別の問題だ。
たとえば、C君とD君がいたとする。C君は、D君と遊ぶのが楽しいから、D君と遊びたいと思って、D君とよく遊んでいる。楽しいから、遊んでいるだけだ。D君と遊ぶ努力を、C君がしているようには、見えない。あくまでも、ぼくから見ると、C君がD君と遊ぶ努力をしているようには見えないということだ。けど、C君が、D君のことがあんまり好きではなくて、D君と遊びたくないのだけど、しかたがなく、遊んでいるとする。なにか、D君と遊んでやらなければならない理由があって、D君としかたがなく、(他人から見ればあそんでいるような行為をしている)とする。その場合は、C君は、D君と遊ぶ努力をしているということになる。なにか、やりたくない気持ちがあるのだけど、それを、無視して、そうするから、努力をしているということになる……。本当は、D君と遊びたくないけど、遊ぶ……という場合は、努力をしているというとになり、本当にD君と遊びたいから、遊ぶという場合は、遊ぶ努力をしているということにはならない。これも、ぼくがそういうふうに思っているだけかもしれない。けど、どうも、「努力をする」という場合は、「なにかやりたくない要素がある」のに「ほかの利益を考えて」あるいは「そうする義務があると感じているので」そうするというニュアンスがあるように思えるのである。
たとえば、自分が知りたいことを調べているとする。自分が知りたいことを知りたいので、調べているとき、自分が努力をしていると思うのかどうか? ぼくの場合は、自分が知りたいことを、調べているときは、特に努力をしているわけではないと思う。どうしてかというと、「やりたくない部分」がないからだ。知りたいから、調べている……。知りたい人が、知りたいことを調べているとき、本当に、努力していると思うのだろうか。自分の知りたいことを、自分が調べているときの様子を、他人が見たとする。他人は、「ぼく(自分)が、勉強をしている」と思うかもしれない。あるいは、他人は「ぼく(自分)が努力をしている」と思うかもしれない。けど、すくなくても、ぼくは、自分が知りたいことを調べているとき、努力をしているという感じはない。本当にやりたいことを、そのことがやりたいからという理由で、やっている場合は、努力をしていることにならないのではないかと、思うのである。なにか、ほかの理由があって、つとめてやっている場合は、努力をしているということになる。それをやりたいという理由だけで、やっているのか、それをやりたいという理由以外にほかの理由があって、それをやっているのか、そんなのは、外から見て、わかることではない。主観的には、わかることだ。「そうするべきだ」と思っているから、「やりたくないと感じる要素があるけど」やる……という場合は、本人は主観的に自分ば努力していると感じるだろう。けど、それは、他人から見て、(本人であるその人が)努力をしているように見えるかどうかとは、関係がない。まったく関係がない。
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「努力をすれば成功する」というような言葉の場合も、ぼくがここで書いたような「努力をする」ということが一意には決まらないということが、成り立っている。「努力をすれば、成功する」……これを、命題として真であるように見せかける場合、成功しなかった人は、努力をしてないということにすればよいのだ。「そんなのは、努力をしたうちに入らない」と他人が言えば、他人から見たら、その人は努力しなかったことになる。「じゅうぶんな努力をしなかったから、成功しなかった」ということにすれば、あたかも、「努力をすれば成功する」というような言葉が正しいような印象をあたえることができる。あとだしでそれをやれば、あたかも法則性があるような印象をあたえることができる。本当は、法則性なんてない。ある人が、努力をしたにもかかわらず、成功しなかったとする。その場合、「努力をすれば成功する」ということを信じている人は、ある人が、努力をしなかったことにしてしまえばよいのである。結果が出たあと、「努力をしたかどうか」を決めれば、常に、あたっているということになる。見せかけの法則性……。詐欺的なやり方……。