さすが、きちがい親父、ダニでたたるとか、目の付け所がちがうよな。自分が死んだあともずっとたたることができるからなぁ。ダニのせいで、俺がどれだけいやな思いをしていると思っているんだ? ネズミの糞で、俺がどれだけいやな思いをしていると思っているんだ? こういうことをやっても、まったく気がつかない。
そういえば、思い出したけど、台所に、ネズミが出るから、台所から、いまのほうに出てこないように、いちいち、引き戸式のドアをしめていたんだよ。そうすると、いろいろと不便なんだけど、そうした。
それで、俺が引き戸式のドアを、引いて開けたら、ネズミが、ばばばばばはっと、びっくりしたように、ものすごい速度で、天井付近の横のところをかけたんだよ。だから、あけて、でかいものが動いたので、俺は、びっくりした。
ネズミもビックリしたのだろうけど、俺もビックリした。
そうしたら、きちがい親父が「びくつくな」とか言いやがったんだよ。ほんとうに、なぐりたくなったなぁ。そりゃ、あんだけ、でかくて、黒いものが、ばっばばばばばっ、ダッシュしたら、ビックリするだろ。
きちがい親父が、一日に二三(にじゅうさん)時間、粕漬の魚をテーブルの上に出しておくということにこだわったからこうなっているんだぞ。親父が、ねずみ対策工事をさせてくれないからこうなっているんだぞ。普通の人だったら、絶対に気にすることを気にしないんだよ。
これは、きちがい兄貴もきちがい親父もおなじだ。
こういうところで、頭がおかしい。
頭がおかしいから、自分の責任で、こうなったということがわかってない。それは、言われないからわからないのではなくて、どれだけ言ったってわからないのである。きちがい親父も、きちがい兄貴も、基本的なことを無視して、あれまくって、認めないんだよ。発狂して認めない。
発狂したいのはこっちなんだよ。
全部、こういうことなんだよ。
全部、こういうことなんだよ。
ほかの家だったら、絶対に起こりえないことなんだよ。
ちなみに、天井の横のことろと書いたのは、台所なので、天井と壁がくっついているところに、壁があるわけではなくて、扉がついた収納部分がついている。だから、ネズミが、走ったところは、扉のうえだ。
これ、ほんとうに、でかいネズミなんだよ。引き戸を引いて、開けたときは、開けたとたんに、なにか黒くてでかいものがすごい速度で移動したと認識したわけだから、普通に、反射的に、おどろく。
そりゃ、なにか黒くてでかいものが、ものすごい速度で移動したら、おどろくだろ。「ネズミだ」ということを認識するまでに、ものすごく短い時間だけど、時間がかかる。びくつくとか、そういうことじゃない。
自分が、ネズミを餌付けして、入れたのに、まるで反省しないんだよ。これ、粕漬の魚を出しておいたから、ネズミがきたんだぞ」ということを言うと、きちがい親父が「だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!」猛烈ないきおいで、嘘をつくんだよ。
これ、きちがい兄貴に「うるさいから、しずかにしてくれ」と言ったときの、兄貴の態度とおなじなんだよ。兄貴はさけんでないけど、おなじことが、起こっている。
おなじことが頭のなかで起こっている。
きちがい親父だって、無言バージョンがある。
ともかく、事実がなんであれ、発狂して否定して、それでのがれれば、それでいいという考えなんだよ。もちろん、熟考しているわけではないけど、そういうきちがい的な考えに支配されている。
「そのときだけ」認めずに、やりきれば、それで、本人のなかでは、すんでしまっている。「すんでしまったら」やってないことなのである。そんなの自分にまったく関係がないことなのである。
だから、そういうことが、時間的にネスト構造で成り立っている。
だから、「認める」ということがないんだよ。これ、普通の人だったら絶対にありえないことなんだよ。
無言バージョンと、否定語絶叫バージョンのちがいは、無言バージョンの場合は「こまる」というようなことなんだよ。将来、相手がこまることになるとか、相手がすでにこまっているということだ。きちがい兄貴やきちがい親父は、こまっていない。きちがい兄貴やきちがい親父は、やりたいことをやめさせられるとこまってしまう。
だから、認めない。発狂して認めない。
発狂したいのは、こっちなんだよ。でっ、否定語絶叫バージョンは、自分がすでにやったことを認めない場合や、感覚器が正常であれば、絶対にわかることを認めない場合に、使われることが多い。あくまでも、傾向だ。
普通の人だったら絶対にやらないことをやって、相手がこまっているから、文句を言ってきているのに、反対語を絶叫して認めなかったり、無言のまま認めなかったりする。普通の人だったら、やるまえから「迷惑だ」ということがわかるから、絶対にやらないことなんだよ。
でも、やりたいからやったとする。相手が文句を言ってきたとする。相手が文句を言ってきた場合、相手の気持ちや相手がこまっているということが(普通の人は)わかるのでやめてやる。
けど、きちがい兄貴や、きちがい親父の場合、それがまったくない。頭がおかしいレベルでまったくない。
だから、そうなると、よその人が、きちがい兄貴の行為や、きちがい親父の行為について、誤解をするのである。常識的に考えれば「そんなことはない」ということになってしまう。実際自分が、家族に「そういうことを」やられたことがないので、やる人がいるということが、「経験的に」わかってない。
そうなると、そういうことをされたときの、影響のでかさがわからないのである。
特に、兄貴のヘビメタ騒音は、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もつづくことなので、「ヘビメタ騒音」という一つの行為なんだけど、影響が、計り知れないほどでかい。
きちがいヘビメタ騒音のなかで、宿題をするのはむりなんだということを言っても、ほかの人は、認めない。自分のことじゃないから、基本的に関係がない。自分のことじゃないから、基本的に関心がない。そんなへんな人(家族)の話なんて、自分にとっておもしろくないことだから、関心がない。
「そんなのは、お兄さんに言えばいいだろ」と思ったり、「どんだけうるさくたって宿題ぐらいできる」と思ったりする。けど、「どんだけうるさくたって宿題ぐらいできる」と思っていられるのは、その人の家族が、きちがい家族ではなくて、自分がこの世で一番嫌いな音を、至近距離で、大爆音で鳴らされないから、わかってないだけなんだよ。
きちがい親父や、きちがい兄貴もわかってないけど、普通の人もわかってない。普通の人は『きちがい親父の行為』や『きちがい兄貴の行為』不可避的に影響をうけるということがわかってない。その影響が、でかいということがわかってない。
普通の人が、考えている以上に、でかいでかい影響をあたえるのだけど、普通の人は、それがわかってない。