親には真剣があるので、影響をうける。アドラーとか、きちがい的な親にたたられたことがない人は、「影響をうけないことが可能だ」と前提でものを言うのである。『影響をうけないぞと、かたい決心をすれば、影響をうけることがない」のである。けど、親は真剣をもっているので、子供側の人間は影響をうけることがある。「影響をうけないことが可能だ」というのは、どんな場合でも影響をうけないことが可能だと言っているのである。けど、実際には、未成年であるうちは、影響をうける。「親」というのは、一番みじかな「他人」だ。他人なのである。他者存在なのである。影響をうけないというのは、他者の影響をうけないということなのである。けど、親と言う他人の影響をうけることはある。親がやることでも、影響をうけないこともある。ようするに、「影響をうけないぞ! 断固無視して、影響をうけないようにするんだ!!」と思って、影響をうけずにすむこともある。けど、そうではないこともある。影響をうけることはゼロではないのである。不可避的に影響をうけてしまうことがある。なので、「他人の影響をうけないことは可能だ」というのは、嘘なのである。
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他人、親という他人、子供側の人間ということについて考えてみよう。子供側の人間が未成年だとする。けど、きちがい的な兄の騒音を逃れるために、アパートを借りたいと思ったとする。けど、未成年なので、親の承諾が必要になる。たとえ、お小遣いをためたカネをもっていて、一年ぐらいは借りられるカネがあったとしても、親の承諾が必要になる。親が承諾しなければ、アパートを借りられないということになる。影響をうけるではないか。学生用のクレジットカードだってそうだ。親の承諾が必要になる。影響をうけるではないか。影響は、うける。なんで、「影響をうける必要はない」とか「影響をうけないことは可能だ」ということを言うのだ? それ、まちがってるぞ。嘘を言うな。
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きちがいが、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為をするのか、ぜんぜんわかってないなぁ。わかってないやつが、「影響をうけないことは可能だ」と言う。そりゃ、人生のなかで、きちがい家族の影響をうけたことがないのだから、そういう感覚になるのだろう。そりゃ、きちがい家族といっしょに暮らしたことがなければ、きちがい家族にやられたことが一度もないというとになる。自分の人生のなかで「一回もしょうじなかったこと」については、想像するしかない。たしかに、そうだ。想像するしかない。なんてたって、自分の人生のなかで一度も経験したことがないことなのだからな。そして、自分は「一度も影響をけたことがない」ので、「影響をうけないことは可能」だと、思ってしまう。そりゃ、なかったことなのだから、あった場合のことよりも、なかった場合のことを、下地として考えてしまう。下地というのは、「考えの下地」だ。自分の経験になじみやすいことを下地として考えるので、本当は、きちがい家族の影響をうけないことなんて、可能じゃないのに、きちがい家族の影響を実際に受けなかった人は、「影響をうけないことは可能だ」と思ってしまうのである。そんなのは、きちがい家族と、実際に、一緒に暮らしたことがないから、どうしても影響をうけてしまうことがあるといこうとが、わかってないだけだろ。きちがいの意地が、そもそも、わかってないんだよ。きちがいの感覚が、そもそも、わかってないんだよ。きちがい的な意地でやっていることを「やってない」と思っているんだからな。きちがいだから、そういうことが可能なんだよ。常識的な考えで言えば、「そんなことはない」のである。だから、「そんなことはない」という前提で考えてしまう。「考えの下地」というのは、ひとつひとつの前提よりも、もっと大きなひろがりをもった……無意識的な「多数の前提」の集合体だ。「の」の重複は指摘しなくてもいい。