不可避的に、朝、だるくなるし、だるい体を無理やり動かすときは、果てしなく、憂鬱なのである。だれだって、朝、だるいときはある」ということになるのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っている環境で感じる「朝のだるさ」ときちがいヘビメタ騒音が鳴っていない環境で感じる「朝のだるさ」はまったく、まったく、まったく、まったくまったく、ちがうのである。けど、実際に、自分の人生中で、ヘビメタ騒音が鳴らなかった人に、どれだけ、「ちがう」と言っても、ちがいがわからないのである。ほかの人は、自分の経験のなかで「朝のだるさ」について考える。その場合、自分が感じる「朝のだるさ」とエイリさんが感じる「朝のだるさ」はだいたいおなじものだろうと、想像してしまうのである。けど、ちがうのである。根本的にちがう。ぼくだって、きちがいヘビメタ騒音が実際に、なるまでは、きちがいヘビメタ騒音がつみかさなったときの「朝のだるさ」を知らなかった。ぜんぜん、ちがうのである。ぼくは、きちがい親父にやられていたので、ほかの人より、しあわせなわけではない。きちがい親父のことで腹をたててよく眠れないときだってあった。きちがい親父という要素があると、「よその人」とも、もめがちになるのである。ともかく、ぼくは、普通の人より悪い環境で暮らしていた。そのぼくが、ヘビメタ騒音が鳴るまえの朝のだるさと、ヘビメタ騒音が鳴ったあとの朝のだるさがちがうといっているのだ。ようするに、普通の人の朝のだるさというのは、ぼくが、ヘビメタ騒音発生前に、感じた朝のだるさとだいたいおなじだと予想できる。普通の暮らしの中で、感じる「朝のだるさ」とヘビメタ騒音発生後の「朝のだるさ」はちがう。ぜんぜん、ちがう。ぜんぜん、ちがうのだけど、これまた、「ぜんぜんちがう」と言っていも、ほかの人にはわからないということになる。必然的にわからないのだ。どうしてかというと、ほかの人の人生のなかには、ヘビメタ騒音がないから。ヘビメタ騒音相当騒音がないから。ヘビメタ騒音相当騒音というのは、その人におけるヘビメタ騒音に相当した騒音のことだ。たとえば、ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタ騒音は、騒音ではないのである。まあ、自分が鳴らすのではなくて、ほかの人が鳴らすなら、騒音だと感じる場合があるとは思うけど。ともかく、その人にとって、この世で一番嫌いな音が、実際の、きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじ音のでかさで、おなじ時間の長さ、おなじ期間の長さ、鳴ってる場合を、ヘビメタ騒音相当騒音と呼ぶことにした。ほかの人には、ヘビメタ騒音相当騒音がないので、ヘビメタ騒音相当騒音以降の「朝のだるさ」と、ヘビメタ騒音相当騒音以前の「朝のだるさ」のちがいが、わからない。ぜーーぜんちがうのだけど、どれだけ、ぜーーんぜんちがうと(ぼくが言っても)ほかの人には、ぜーーーーんぜん、わからない。わからなければ、ないようなものなんだよ。
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