ほんとうに、ひとごとだと思って、無視したり、ものすごい過小評価をして、好き勝手なことを言いやがって。「無理だ」と言っているのに、それを無視して、「無理だと言うから、無理なんだ。できると言えばできる」なんて言いやがって。これは、言霊主義者の反応だけど、言霊主義者じゃなくても、一般人は、そういう反応だったよ。まあ、九五%の一般人ということだけど……。本とんどの人が、そういう反応なんだよな。で、帰ってから、きちがい兄貴ともめる。けど、どれだけもめても、きちがいがきちがいの反応をして、一分間もしずかにしてくれない。きちがいがきちがい構造をとおして、「一分間もしずかにしてやらなかった」ということを、認知・認識しない。そもそも、認知・認識してないことなのだから、記憶には残らない。これは、普通の忘却ではない。普通の記憶障害ではない。最初から、認知・認識してない。最初から、そのことは、認知・認識されてない。きちがい親父とおなじ認知・認識なんだよ。やり方が、全部、いっしょだ。きちがい兄貴が、きちがい親父にやられたら、どんなこまかいことだって、認知・認識して腹をたてるのに、自分が、弟にやったことは、どんなにでかいことだって、認知・認識しないのだ。きちがい親父とおなじやり方で、認知・認識しない。だから、本人にとっては、「記憶にないこと」になっている。けど、ものすごく、意地をはって、それをやるのである。絶対にゆずらないのである。意地をはってそうしたのだから、意地をはってそうしたという記憶があって当然なのに、まったく、まったく、まったく、ないのだ。本人としては、正直に言って「おぼえてない」ということになる。本人のなかでは「そんなのやってない」「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」ということになる。きちがい兄貴のやることが、すべての使える時間を使って、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らすということなのだから、となりの部屋にいる俺は、影響をうけて当然だ。とろが、影響をけてないやつが……きちがい家族がいないからそういう影響をうけてないやつが……「そんなのは、気にしなければいい」ということを言う。「騒音にこだわるからダメなんだ」ということを言う。「俺だって騒音ぐらいある」ということを言う。「俺だって、朝はつらい」ということを言う。言う。言う。言う。けど、ちがうんだよ。
もう、ぼくの人生は、こういうことの、繰り返しだった。ずっとずっとずっと、繰り返しだった。もう、いいよ。