想像力の問題だといってしまえば、想像力の問題なのだけど、きちがい兄貴が、そもそも、レアな人間なので、「そういうモードで」きちがい行為をこだわってこだわって、実行してしまう人が、その人の身のまわりには、いない。
いないと、わからない。実際にやられたことがないので、被害の大きさがわからない。時系列的な被害の大きさは、特にわからない。ヘビメタ騒音のハンディというのは、一日でも、ものすごいハンディなんだよ。
けど、他人の目から見ると、ぼくがそんなハンディをもっているようには見えない。他人の目から見ると、ぼくには、ハンディがないように見える。けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのが、ものすごい、ハンディなんだよ。
他人には、まったく見えないハンディだ。
だから、他人は、ぼくの状態が、ハンディなしで成り立っているように見えるのだ。たとえば、遅刻をするということにかんして考えた場合、きちがい兄貴のハンディが、ものすごく影響をあたえているようには見えないのである。そして、他人には、実際に!!……これがたいせつなのだけど、実際に!!……きちがい兄貴のハンディがない。きちがい兄貴がもたらす騒音というハンディがない。
なので、ほんとうに、見えないのである。
ぼくが、ヘビメタ騒音でどうしても、遅刻をしてしまうということを言っても、そんなのは、認めないのだ。だいたい、他人にとっては、兄という存在は、きちがい兄貴のような存在ではない。
だから、「話せばわかる人」「話せばかわる存在」なのである。だから、「話し合って解決すればいいのに、なにを言っているんだ」という気持になる。この人に、うちのきちがい兄貴の性格を完全に理解させることはできない。
どれだけ、言葉を尽くしても、まったくつたわらない部分がある。まあ、それは、あたかも、きちがい兄貴に、どれだけ言葉を尽くして、こまるということを言ってもまったく、つたわらない部分とも、「かぶる」わけなんだけど、もちろん、他人は、きちがい兄貴とはちがう存在だ。
他人は、うちのきちがい兄貴のような性格ではないのである。
だから、自分も(うちのきちがい兄貴のような性格ではないし)、自分の家族も(うちのきちがい兄貴のような性格ではない)ので、根本的にわからないのだ。だから、これも、無視することになる。間隔としてまったくわからないのだから、「そんなのはあるのかな?」という感じで無視することになる。他人にとって目の前の問題は、エイリが遅刻をするということなのである。焦点はそこだ。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音ではない。
ところが、どーーしても、だめなんだよ。どーーしても、ヘビメタ騒音を浴びせられると、遅刻することになる。宿題もおなじで、どーーしても、ヘビメタ騒音を浴びせられると、宿題ができないのである。他人は、きちがい兄貴の性格を無視すると同時に、「どーしてもだめだ」という部分を無視する。どうしてかというと、自分の問題ではないからだ。自分の家にはそんな人がいないからだ。