2024年3月23日土曜日

普通の人は、まちがった認識をもってしまう

 たとえば、リンゴという名称で、一〇〇個のリンゴをくばるとする。けど、そのリンゴのなかには、毒リンゴがひとつ入っている。一〇〇分の一の確率で、病気になり死ぬ人が出てくる。けど、みんな、毒リンゴが入っているということを知らない。毒リンゴという認識はなくて、リンゴという認識しかない。

その場合、リンゴを食べた九九人の人は、「私は食べても平気だった。うそを言うな」ということを言うのである。これは、名称の問題なのである。

リンゴのなかに、普通のリンゴと毒リンゴが入っている。確率的には一%の確率で、毒リンゴ(あたり)を引くことになる。なのだから、リンゴを食べるべきではないのだ。

だれが、あたるかわからないのだから、あたらないようにするには、食べないという選択をするべきなのだ。ところが、みんな食べて、「私は食べても平気だった。うそを言うな」ということを言うのである。

しかし、ひとりは、病気になって死んでいる。けど、それは、リンゴのせいではなくて、寿命で死んだんだとか、ほかの理由で死んだとかと思うのである。

リンゴはリンゴで、人を殺すような威力がないという認識をもっていて、なおかつ、くばられたリンゴは、すべてリンゴであって、毒リンゴではないという認識をもっていると、そういうふうに、考えてしまう。

実際に、毒リンゴが一〇〇個に一個入っていることをかくしたい人が、「因果関係は証明されない」ということを言う。これは、正しい。正しいのだけど、まちがっている。どうふうに、まちがっているのかというと、因果関係を証明すると、証明した人が死ぬことになっているのである。

そういう場合は、たとえ、科学的に因果関係を証明できたとしても、因果関係を証明してしまうわけにはいかないから、公的には、因果関係は証明されないということになる。けど、普通の人の思考のなかにはそういうことが含まれてない。

「できない」という可能性について考えない。

なので、くばられたリンゴは普通のリンゴであり、たとえ、食べた人のうち、ひとりが死んだとしても、それは、リンゴと関係があるのかどうか、因果関係は証明できないということになる。

「因果関係は証明できない」ということと、「因果関係はない」ということは、それぞれ別のことなのだけど、これにかんしても、普通の人は、まちがった認識をもってしまう。「因果関係は証明できない」のなら、「因果関係はない」と思ってしまうのだ。

だから、いろいろな誤解がつみかさなって、毒リンゴが一〇〇個に一個入っているかもしれないという可能性を考えずに、リンゴを食べてしまう。これは、一〇〇分の一の賭けにでたということだ。けど、賭けにでたつもりがないのである。

どうしてなら、一〇〇に一個、毒リンゴが入っているという情報はまちがっていると判断したからだ。一〇〇に一〇〇個が普通のリンゴであり、毒リンゴではないという判断をして、リンゴを食べているからだ。

自殺願望がある人がいる場合は、自殺願望がある人は、一〇〇個に一個毒リンゴが入っているということを知っていても、食べるかもしれない。なので、そういう場合もある。その場合は、一〇〇人が、死なないつもりでリンゴを食べたという前提は、ひっくり返る。しかし、たいていの人は、死ぬとは思わずに、くばられたリンゴを食べるのである。

いろいろとまちがった認識をもっている人が、くちぐちに「自分は科学的に考えた」ということを言うのである。科学的というのは、どういうことなのか?

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。