たとえば、リンゴという名称で、一〇〇個のリンゴをくばるとする。けど、そのリンゴのなかには、毒リンゴがひとつ入っている。一〇〇分の一の確率で、病気になり死ぬ人が出てくる。けど、みんな、毒リンゴが入っているということを知らない。毒リンゴという認識はなくて、リンゴという認識しかない。
その場合、リンゴを食べた九九人の人は、「私は食べても平気だった。うそを言うな」ということを言うのである。これは、名称の問題なのである。
リンゴのなかに、普通のリンゴと毒リンゴが入っている。確率的には一%の確率で、毒リンゴ(あたり)を引くことになる。なのだから、リンゴを食べるべきではないのだ。
だれが、あたるかわからないのだから、あたらないようにするには、食べないという選択をするべきなのだ。ところが、みんな食べて、「私は食べても平気だった。うそを言うな」ということを言うのである。
しかし、ひとりは、病気になって死んでいる。けど、それは、リンゴのせいではなくて、寿命で死んだんだとか、ほかの理由で死んだとかと思うのである。
リンゴはリンゴで、人を殺すような威力がないという認識をもっていて、なおかつ、くばられたリンゴは、すべてリンゴであって、毒リンゴではないという認識をもっていると、そういうふうに、考えてしまう。
実際に、毒リンゴが一〇〇個に一個入っていることをかくしたい人が、「因果関係は証明されない」ということを言う。これは、正しい。正しいのだけど、まちがっている。どうふうに、まちがっているのかというと、因果関係を証明すると、証明した人が死ぬことになっているのである。
そういう場合は、たとえ、科学的に因果関係を証明できたとしても、因果関係を証明してしまうわけにはいかないから、公的には、因果関係は証明されないということになる。けど、普通の人の思考のなかにはそういうことが含まれてない。
「できない」という可能性について考えない。
なので、くばられたリンゴは普通のリンゴであり、たとえ、食べた人のうち、ひとりが死んだとしても、それは、リンゴと関係があるのかどうか、因果関係は証明できないということになる。
「因果関係は証明できない」ということと、「因果関係はない」ということは、それぞれ別のことなのだけど、これにかんしても、普通の人は、まちがった認識をもってしまう。「因果関係は証明できない」のなら、「因果関係はない」と思ってしまうのだ。
だから、いろいろな誤解がつみかさなって、毒リンゴが一〇〇個に一個入っているかもしれないという可能性を考えずに、リンゴを食べてしまう。これは、一〇〇分の一の賭けにでたということだ。けど、賭けにでたつもりがないのである。
どうしてなら、一〇〇に一個、毒リンゴが入っているという情報はまちがっていると判断したからだ。一〇〇に一〇〇個が普通のリンゴであり、毒リンゴではないという判断をして、リンゴを食べているからだ。
自殺願望がある人がいる場合は、自殺願望がある人は、一〇〇個に一個毒リンゴが入っているということを知っていても、食べるかもしれない。なので、そういう場合もある。その場合は、一〇〇人が、死なないつもりでリンゴを食べたという前提は、ひっくり返る。しかし、たいていの人は、死ぬとは思わずに、くばられたリンゴを食べるのである。
いろいろとまちがった認識をもっている人が、くちぐちに「自分は科学的に考えた」ということを言うのである。科学的というのは、どういうことなのか?