テレビに出てくるダメ人間が、主人公に対して、ネガティブなことを言うわけ。
けど、そのネガティブなことは、はずれて、主人公がものすごいパワーを発揮して、敵を倒してしまうわけ。あるいは、ゲームで勝ってしまうわけ。あるいは、スポーツの試合で勝ってしまうわけ。
主人公には悪い条件が、これでもかというとほど、成り立っていて、ピンチにおちいるけど、ものすごいパワーで、その悪条件をはねのけて、勝ってしまう。
で、そういう話ばかりを見ていると、ヘビメタ騒音のことを話す……ぼくのことを、ダメ人間だと思ってバカにするようになるわけ。こういうことが、普通に成り立っている。
主人公だから、勝てる。アニメだから勝てる。ドラマだから勝てる。ほんとうは、突然、スーパーパワーがわくなんてことはないし、ものすごく不利な条件で、突然、大ラッキーなことが起きて、勝てるなんてことはない。ないのだけど、物語りの主人公だから、勝てる。
現実世界の話ではないんだよ。架空の世界の話なんだよ。そして、この、突然スーパーパワー、突然ラッキーというのは、悪魔側の発想なんだよ。これは、洗脳の一種だ。洗脳されているとは思わないのだけど、そういう価値観が、からだにしみこんでくる。
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現実の世界では、悪魔のたくらみによって、物理的にものすごく不利だったり、金銭的にものすごく不利だったりすると、負けることになっている。物理的にというのは、さまざまなことが入っているけど、大きなものは、「身体」だ。この身体というのが問題なんだよ。
きちがいヘビメタ騒音で、「身体」能力が落ちた。これは、測定されるものでも落ちるし、測定されないものでも落ちる。そして、一番きいたのは「生活体力」と言えるものだ。この生活体力というのは、体力測定では測れない体力なのである。持続的に、一定の時間に起きて、一定の行動をすることができる能力だ。
たとえば、一定の時間には眠って、一定の時間に起きて、学校に通うというような能力だ。これは、体力測定で測れないけど、身体的なものだ。きちがいヘビメタによって、睡眠回路が破壊されるとだめなのである。
けど、普通の人のうちでは、きちがいヘビメタ騒音なんてことは、発生しない。ないことなのだ。普通の人は、経験しないことなのだ。だから、考えから、そもそも、除外されている。きちがい兄貴や、きちがい親父がもたらす、不利な条件は、除外されているのである。普通の人の頭のなかから、除外されている。
そして、自分には経験がないことなので、ぼくが、あらたにこういうことがあるということを知識としてさずけた場合にも、否定してしまう。そりゃ、自分の経験から言って、ないことだし、普通はないことなのだから、ないことなのだと思ってしまう。
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まあ、「身体的なものだ」と書いたけど、身体は脳みそを含んでいるので、精神的な問題も含んではいる。「睡眠回路が破壊された」ということだって、比喩的に言っているわけで、これはもちろん、脳みその問題なのである。
まあ、生きている以上、脳みそを含んだ身体的な問題ということになる。
体力が発揮されるときは、かならず、脳みそがかかわっている。だから、脳みそがまったくかかわってない体力というものは、想定するべきではない。しかし、一般的に言うと、脳みその問題と体力の問題は、区別している。いちおう、一般的な言い方にそくして「身体的なものだ」と書いた。けど、脳みそは含んでいる。ようするに、精神も含んでいる。
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ともかく、マンガやアニメの世界で、条件が悪い主人公が……悪い条件などとは関係なく、勝ってしまう物語を見ている人は、他人の「悪い条件」に対して、鈍感になるのである。ちょーーー鈍感になる。「あったってない」ぐらいになっている。「そんなのは、努力でどうにかなる」「そんなのは、すごい才能でどうにかなる」と思ってしまう。
実際には、おなじことを自分がやられれば、ダメになるのに、そういうことがまったくわかってない人間ができあがる。
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あとは、ともかく、マンガやアニメの世界で、条件が悪い主人公が……悪い条件などとは関係なく、勝ってしまう物語を見ている人は「悪い条件」について、言及する人を「ダメ人間だ」とみなすようになる。この、みなしパワーが、すごい。
ともかく、「ネガティブなことを言うやつはダメ人間だ」と決めてかかってくる人間がじつに……この世では……多かった。そして、特に、「悪い条件」について話をする人は、ものすごくいやなやつで、ものすごくネガティブなやつで、ものすごいダメ人間だと、みなす人が人間がじつに……この世では……多かった。多かった。
ダメ人間だとみなす主体は、普通の人で、ダメ人間だとみなされる客体(対象者)は、「悪い条件」について言及する人ね。これ、まちがえないように。普通の人だって、そりゃ、ある分野では、悪い条件をかかえている。
けど、これは、人間界において、相対的なものなのだよ。普通の条件をかかえている人もいれば、極端に悪い条件をかかえている人もいる。じつは、いい条件をかかえている人もいる。
『条件』について語ること自体が、タブーになっている。
条件について語る人は、「なんとなく腹がたつ人間だ」という認識が、普通の人のなかに、できあがっている。どうしてこういうことになったかというと、やはり、悪魔側の洗脳が重要なんじゃないかなと思う。まあ、これは、あくまでも、思っているだけだ。
自分の『悪条件』について語る人を、人は、憎むのである。そういう思考が、普通の人のなかに、普通に成り立っている。これなんかも、やっぱり、自己責任論や努力論とつながるわけだけど、悪魔側が誘導してつくった感じ方なんじゃないかなと、思う。
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いづれにせよ、普通の条件の人が、極端に悪い条件の人に、俺だって悪い条件はあるということをいうことで、極端に悪い条件の人の極端に悪い条件が消滅するかというと、消滅しない。普通の条件の人だって、不愉快なことはあるし、完ぺきな親はいないので、親に対しても、不愉快な思いをするかもしれない。
けど、それと、きちがい的な親にたたられることは、ちがうことなのである。正常な親がときに、自分にとって不愉快なことを選択したというのと、きちがい的な親が、自分にとって、常に不愉快なことを選択したということは、ちがうことなのである。
きちがい的な理由が成り立っているかどうかは、重要なことだ。
まあ、親の話になってしまったけど、ともかく、普通の人だって、そりゃ、標準?にくらべて、悪い条件がいくつかは成り立っている。
だから、「自分だって悪い条件が成り立っている」ということは、正しいことだ。普通の人だって、「自分だって悪い条件が成り立っている」と思っているわけだ。
けど、悪い条件の分野や、悪い条件の度合いは、絶対に、関係がある。「自分だって悪い条件が成り立っている」ということが、「悪い条件の度合い」のちがいを無効化するわけではないのである。度合いは、重要だ。
「自分だって悪い条件がある」と言えば、条件のちがいがあるということや、「悪い条件の度合い」のちがいがあるということが、無意味化するわけではない。
けど、普通の人は、無意味化させる文脈で、そういう発言をしているのである。
だから、まあ、ほんとうに、上から下まで、条件のちがいがありすぎるほど、あるんだよ。けど、まあ、上の人が、「自分だって、こういう悪い条件をかかえている」と言うことが、上から下までの条件のちがいを無効化するわけではない。ある。
条件のちがいがある。
上の人が「自分だって苦労した」と言ったって、上から下まで、条件のちがいがありすぎるほど、あるんだよ。上の人と書いたけど、中ぐらいの人もおなじだ。
なんだったら、下の人まで、ふくめてもいい。下の人と言ったって、程度のちがいがある。
中にちかい下の人と、最低の下の人では、条件がかなり、ちがう。分野のちがいと、程度のちがいがある。分野のちがいと程度のちがいは重要なのである。実際の結果に影響をあたえることだ。だから、無視するべきではないのである。
所与の条件がちがうのだから、いっしょだということにして、話をすすめるのはよくない。いっしょだというのは、ようするに、おなじだということだ。「自分だって苦労した」とひとこと言えば、それで、所与の条件のちがいが、実際になくなってしまうわけではないのである。
なくなってないのだから、ちがいが影響をあたえる。条件のちがいは、ある。
この世では、ほんとうに、残酷なほど、条件のちがいがある。
なんで、無視する?
条件のちがいが、結果に影響をもたらして、当然だ。
どうして、無視する?
「そんなのは関係がない」と言ったあと、努力論について語るな。