ともかく、大音響でヘビメタをきかされているときの、ぼくの頭のなかの状態というのは、ヘビメタが好きな人や、ヘビメタをきいたことがない人にはわからないと思う。
あんな大音響でずっと鳴らしていいわけがない。
きちがい兄貴だって、うち以外のところでは、鳴らせない音なのである。
あれは、きちがい親父とおなじで「うちならなにをやってもいい」「うちなら、外ではやれないことを、がんがんやっても、ゆるされる」という無意識的な自動思考がある人間なのだ。
これ、ほんとうに、きちがい兄貴しても「うちだから」やったことなのだ。
「うちだから」どれだけ言われても、認めずにやったことなのだ。
自分がやっていることを認めないというやり方で、やりきるという方法を採用した。けど、無意識的にそういう方法を採用したので、意識では、そういう方法を採用したつもりがないことになっている。意識では、「やってない」ことになっているのだ。
けど、無意識的に「うちでなら、どれだけやってもいい」「うちでなら、自分の意地をとおしても当たり前だ」と思って、やった。
何度も言うけど、それが無意識的な過程なので、意識にはあがってこない。意識のほうは、「そんなことやってないのに、なんだ!!」と思うだけなのである。
どれだけ言われたって、言われたときに、いかり狂って、はねのければ、はねのけたとたんに、関係がない人になってしまう。ようするに、やっているのかやっていないのか知らないけど、ともかく、自分には関係がないと思ってしまう。そういう態度でやりきる。
だから、意識的には、「ものすごくでかいとで鳴らしている」つもりがない状態なのである。だから、文句を言われたら、文句を言ってくるほうが悪いと思うだけなのである。なので、腹をたてて、やりきる。
けど、本人は、やったつもりがない。
そりゃ、大音響で鳴らしているつもりがないなら、大音響で鳴らしたことはないということになってしまう。意識では、そうなる。
そして、相手の言い分を無視する力が、ものすごく強い。これは、きちがいだからなせるわざだ。これ、普通の人は、まったくちがうのである。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない虫の無視たなのである。
けど、うちのなかで、きちがい的な無視を、きちがい兄貴がしたとしても、うちのなかにいない人にとっては、なんでもないことだ。
ぼくが学校に行った場合、学校に集まってきている人というのは、きちがい兄貴がうちのなかでしたことを、知らない人たちばかりなのである。うちの兄貴の状態を、うちのなかで知っている人じゃないのである。
なので、ズレがある。
普通の人は、普通の家族と住んでいるので、きちがい家族がやることにかんしては、まったく理解がない。大きな音でステレオを鳴らすといっても、封の家族がやることだ。無意識に問題があるきちがい家族がやることではないのである。だから、普通の人は、きちがい家族がいるうちのことについて、常に、過小評価をしてしまう。
「言えばどうにかなるんじゃないか」と思ってしまう。
けど、きちがいはきちがいだから、きちがい回路が発動して、「ちゃんと言っても」どうにもならない。そのままの状態が続く。普通の家では、そのままの状態がずっと続くということがない。
だから、普通の家に住んでいる人は、人生のなかで、そういうことを経験したことがないということになる。ひとごとだ。完全にひとごとだ。別の個体に起こったことだ。自分は、痛くもかゆくもない。自分は、ぜんぜん、(そのことで)つらくない。
なので、必然的に過小評価をしてしまうのである。影響を無視してしまう。
影響は、想像するしかないのだけど、自分の人生経験から言って、想像できないものなのである。あるいは、想像しにくいものなのである。
だから、ほかの人のなかにある「ヘビメタ騒音」と、ぼくが実際に経験した「ヘビメタ騒音」は、そういうレベルで、異なるものなのである。異なるもなのだけど、これがまた、異なるということが、ほかの人にとってはどうでもいいことなのである。
この、どうでもいいというような態度は、きちがい兄貴にもある。
これ、きちがい兄貴が張本人で、「やめてくれ」と言われれば、発狂して怒って、意地になってやるのに、まったくやってないという意味で、まったくまったく、関係がないことなのである。関係がない他人のように、きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。
鳴らされているときからだのつらさは並じゃないのけど、鳴らされていない他人は、つらくないのである。だから、わからない。鳴らされ終わったあとの、からだのつらさは並じゃないのだけど、鳴らされてない他人は、他人ごとなので、わからない。わからないからわからない。だから、「鳴り終わったら関係がない」などと言う。けど、影響をうけている。