2024年3月18日月曜日

きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。

 ともかく、大音響でヘビメタをきかされているときの、ぼくの頭のなかの状態というのは、ヘビメタが好きな人や、ヘビメタをきいたことがない人にはわからないと思う。

あんな大音響でずっと鳴らしていいわけがない。

きちがい兄貴だって、うち以外のところでは、鳴らせない音なのである。

あれは、きちがい親父とおなじで「うちならなにをやってもいい」「うちなら、外ではやれないことを、がんがんやっても、ゆるされる」という無意識的な自動思考がある人間なのだ。

これ、ほんとうに、きちがい兄貴しても「うちだから」やったことなのだ。

「うちだから」どれだけ言われても、認めずにやったことなのだ。

自分がやっていることを認めないというやり方で、やりきるという方法を採用した。けど、無意識的にそういう方法を採用したので、意識では、そういう方法を採用したつもりがないことになっている。意識では、「やってない」ことになっているのだ。

けど、無意識的に「うちでなら、どれだけやってもいい」「うちでなら、自分の意地をとおしても当たり前だ」と思って、やった。

何度も言うけど、それが無意識的な過程なので、意識にはあがってこない。意識のほうは、「そんなことやってないのに、なんだ!!」と思うだけなのである。

どれだけ言われたって、言われたときに、いかり狂って、はねのければ、はねのけたとたんに、関係がない人になってしまう。ようするに、やっているのかやっていないのか知らないけど、ともかく、自分には関係がないと思ってしまう。そういう態度でやりきる。

だから、意識的には、「ものすごくでかいとで鳴らしている」つもりがない状態なのである。だから、文句を言われたら、文句を言ってくるほうが悪いと思うだけなのである。なので、腹をたてて、やりきる。

けど、本人は、やったつもりがない。

そりゃ、大音響で鳴らしているつもりがないなら、大音響で鳴らしたことはないということになってしまう。意識では、そうなる。

そして、相手の言い分を無視する力が、ものすごく強い。これは、きちがいだからなせるわざだ。これ、普通の人は、まったくちがうのである。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない虫の無視たなのである。

けど、うちのなかで、きちがい的な無視を、きちがい兄貴がしたとしても、うちのなかにいない人にとっては、なんでもないことだ。

ぼくが学校に行った場合、学校に集まってきている人というのは、きちがい兄貴がうちのなかでしたことを、知らない人たちばかりなのである。うちの兄貴の状態を、うちのなかで知っている人じゃないのである。

なので、ズレがある。

普通の人は、普通の家族と住んでいるので、きちがい家族がやることにかんしては、まったく理解がない。大きな音でステレオを鳴らすといっても、封の家族がやることだ。無意識に問題があるきちがい家族がやることではないのである。だから、普通の人は、きちがい家族がいるうちのことについて、常に、過小評価をしてしまう。

「言えばどうにかなるんじゃないか」と思ってしまう。

けど、きちがいはきちがいだから、きちがい回路が発動して、「ちゃんと言っても」どうにもならない。そのままの状態が続く。普通の家では、そのままの状態がずっと続くということがない。

だから、普通の家に住んでいる人は、人生のなかで、そういうことを経験したことがないということになる。ひとごとだ。完全にひとごとだ。別の個体に起こったことだ。自分は、痛くもかゆくもない。自分は、ぜんぜん、(そのことで)つらくない。

なので、必然的に過小評価をしてしまうのである。影響を無視してしまう。

影響は、想像するしかないのだけど、自分の人生経験から言って、想像できないものなのである。あるいは、想像しにくいものなのである。

だから、ほかの人のなかにある「ヘビメタ騒音」と、ぼくが実際に経験した「ヘビメタ騒音」は、そういうレベルで、異なるものなのである。異なるもなのだけど、これがまた、異なるということが、ほかの人にとってはどうでもいいことなのである。

この、どうでもいいというような態度は、きちがい兄貴にもある。

これ、きちがい兄貴が張本人で、「やめてくれ」と言われれば、発狂して怒って、意地になってやるのに、まったくやってないという意味で、まったくまったく、関係がないことなのである。関係がない他人のように、きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。

鳴らされているときからだのつらさは並じゃないのけど、鳴らされていない他人は、つらくないのである。だから、わからない。鳴らされ終わったあとの、からだのつらさは並じゃないのだけど、鳴らされてない他人は、他人ごとなので、わからない。わからないからわからない。だから、「鳴り終わったら関係がない」などと言う。けど、影響をうけている。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。