がんばるといったって、どういう状態で「がんばっている」のか、他人はわからない。きちがいヘビメタが鳴っているこの部屋に、いること自体が、ものすごい毒なのだから、きちがいヘビメタが鳴っているこの部屋にいるだけで、「がんばっている」のだ。そして、そのがんばりが、ものすごく悪い状態をうんでしまうのである。これは、不可避的にそうなるのだ。人間のからだをもっていれば、不可避的にそうなる。けど、きちがい兄貴が、ほかの家にはいない。きちがい兄貴とおなじような情熱、こだわりで、きちがいヘビメタを鳴らす人が、ほかの家にはいない。きちがい兄貴とおなじような、感覚器の問題をもっている人間がいない。きちがいお兄貴とおなじような、無意識の問題をもっている人間がいない。いない。いない。いないとどうなるか? そういう人間……そういう家族にやられるということが、わからないということになる。だって、自分の人生にまったく生じなかったことなのだから、わからない。かわりに、きちがい家族ではない人が、ステレオを鳴らしてうるさいという問題がしょうじる。しょうじたとしよう。おなじかというと、おなじではないのだ。きちがいと、きちがいではない人とでは、感じ方がちがう。やり方がちがう。けっきょく、そんなにはでかい音で鳴らさないし、そんなには、長い時間、鳴らさないし、そんなのには、長い期間鳴らさない。無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人なんて、そんなには、いない。だから、そういう人間が家族のなかにいる人も、そんなにはいない。無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人のなかで、自分のこだわりの音にこだわってこだわって、すべての使える時間を使って鳴らす人は、さらに少ない。きちがい親父も無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人なのだけど、きちがい親父の場合は、騒音をでかい音で鳴らし続けることには、こだわりがなかった。ほかのことで、きちがい行為をした。だから、きちがい兄貴とおなじような人間は、無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人であって、なおかつ、ヘビメタをでかい音で鳴らすことに特別なこだわりがある人間なのである。さらに、きちがい兄貴にしたって、マンションでは、鳴らせないのである。俺のことさえ無視すれば、鳴らせる環境だった。これもでかい。ここは、でかい幼稚園の敷地がある関係で、鳴らしやすいのだ。ほかの家とも、離れていた。当時はそうだ。きちがい兄貴だって、よそのうち」では鳴らせないのである。うちの人だけしかいないうちであって、なおかつ、うちの人を無視すれば、鳴らせる環境でなければならせないのだ。しかし、別に、きちがい兄貴が、うちと、よそを、使いわけているわけではないのだ。意識的には、まったく使いわけてないつもりだ。けど、きちがい兄貴が15歳なったとき、そういう環境だったのだ。そういう環境だということを、まったく意識してないけど、そういう環境だった。きちがい親父だって、親戚のうちで、普段、うちで行動するように行動するかというと、行動しないのだ。「うちでは」きちがい的な理由で、こどもや妻に、怒りをぶつけて、発狂していたけど、「よそのうち」ではそんなことは、しない。なら、親父が、「意識的に」使いわけて、いたかというと、そうではないのだ。きちがい親父は、まったく、使いわけているつもりがなかった。けど、「うちでは」ごく自然に、そういう態度になって、そうしていた。