2024年3月14日木曜日

あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。

 まあ、うんと手短に言って、ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつとは、対立することになっている。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしたら、「ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつ」と対立することになっている。

もう、セットなんだよ。

決まっていることなんだよ。

あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。

そして、本当に「できない」わけだから。「宿題をやってこない」ということにかんして、「不愉快な気持ち」になるものと、対立することになっている。

こいつらはこいつらで、実際に、俺の部屋で暮らしているわけではないから、きちがいヘビメタ騒音のすさまじさが、わからない。経験してない。経験的にわからない。

だから、ヘビメタ騒音が終わったあとも、眠れないということがわからない。そりゃ、午後四時から午後一一時一〇分まで、ヘビメタをあびていれば、そういう状態になるのだけど、これも、ぼくと同じ部屋にいて、ぼくとおなじぶんだけヘビメタをあびているわけではないから、ヘビメタを鳴らされたあと、眠れないというのがわからない。

「ヘビメタが鳴りやんでいるのだから、眠れるだろ」と思ってしまう。こいつらは、こいつらで、「眠れない」というとを認めない。自分だって、眠れなくなる。

おなじことをやられたら、自分だって眠れなくなる。

けど、そいつの家には、きちがい家族がいない。きちがい家族がいないから、きちがい家族が、きちがい的な意地でやることの、影響をうけてない。自分の生活のなかで発生しないことだ。だから、経験的にわからない。

わからなければ、「そんなのはどうでもいい」とか「鳴り終わったら眠れるだろ」とかと思うことになる。こいつらにしてみれば、「鳴り終わったあと眠れない」などと「わけのわからないことを言っている」ということになる。

そして、俺に対して、「わけのわからないことを言っているやつ」という気持をいだくようになるのである。

途中から、「眠れない」という話になったけど、その「眠れない時間に、宿題ができるかというと、できないのである。これも、俺ができないと言ったらできないんだよ。俺が、ものすごく努力して、やろうとしたけど、できなかったから、できないと言っているんだよ。一回だけではなくて、何回も何回もできなかったから、「できない」と言っているんだよ。

けど、そういう、「どうしようもな状態」を経験してない人には、それがどういう状態なのかわからない。きちがいヘビメタ騒音を毎日、長時間あびるということは、そういうことなんだよ」と言ったって。経験がない人には、わからない。

経験がない人にとっては、そういうふうに言われたあとも「そんなの、できるだろ」「根性、だせば、できるだろ」「努力をしたくないからそういうふうに言っているだけなんじゃないか」と思うようことなんだよ。

ぼくの感想を言ってしまえば、ぼくにとってのヘビメタ騒音のような音を、あの音のでかさで、家族が、至近距離で、何時間も何時間も鳴らしていたら、そういうふうに言っているやつらだって、できなくなる。

もう、俺にとっては、これも確定事項だ。

もちろん、俺がそういうふうに確信しているだけだ。そういう状態に、そいつらが、おかれなければ、実際のところは、わからない。本人にとって、一番苦手な音が、あの音のでかさでずっと鳴っていたら、俺とおなじような状態になると思うけど、そんなのは、そういうことをやる異常な人間と一緒に暮らしていなければ、人生において生じないことだ。

しょうじないのだから、確かめようがない。

けど、ぼくは、そうなると思っているよ。

けど、そいつらは、「そうならない」と思っているんだよ。これも、確信に近いわけ。だから、「そうなる」と思っている人間と、「そうならない」と思っている人間のあいだには、溝がある。革新における、溝がある。

ならば、その核心について、特に、言及されなくても、確信しているのだから、確信している部分がいろいろな「その他の思考」に影響をあたえる。

ようするに、前提として「そうなる」と思っている人間が考えることと、前提として「そうならない」と思っている人間が考えることは、必然的にちがってくる。

なので、両者の間には、根本的な対立がうまれる。

じゃあ、どうして、この対立が生まれるのかというと、きちがいきちがい兄貴が、よその家では、一分だって鳴らせないような・でかい音で、ヘビメタを鳴らすことにこだわって、そうしたからだ。

これ、俺の人生のなかにでだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、「すべて」を無視して、鳴らすということをしなかったら、しょうじなかったことだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。