まあ、うんと手短に言って、ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつとは、対立することになっている。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしたら、「ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつ」と対立することになっている。
もう、セットなんだよ。
決まっていることなんだよ。
あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。
そして、本当に「できない」わけだから。「宿題をやってこない」ということにかんして、「不愉快な気持ち」になるものと、対立することになっている。
こいつらはこいつらで、実際に、俺の部屋で暮らしているわけではないから、きちがいヘビメタ騒音のすさまじさが、わからない。経験してない。経験的にわからない。
だから、ヘビメタ騒音が終わったあとも、眠れないということがわからない。そりゃ、午後四時から午後一一時一〇分まで、ヘビメタをあびていれば、そういう状態になるのだけど、これも、ぼくと同じ部屋にいて、ぼくとおなじぶんだけヘビメタをあびているわけではないから、ヘビメタを鳴らされたあと、眠れないというのがわからない。
「ヘビメタが鳴りやんでいるのだから、眠れるだろ」と思ってしまう。こいつらは、こいつらで、「眠れない」というとを認めない。自分だって、眠れなくなる。
おなじことをやられたら、自分だって眠れなくなる。
けど、そいつの家には、きちがい家族がいない。きちがい家族がいないから、きちがい家族が、きちがい的な意地でやることの、影響をうけてない。自分の生活のなかで発生しないことだ。だから、経験的にわからない。
わからなければ、「そんなのはどうでもいい」とか「鳴り終わったら眠れるだろ」とかと思うことになる。こいつらにしてみれば、「鳴り終わったあと眠れない」などと「わけのわからないことを言っている」ということになる。
そして、俺に対して、「わけのわからないことを言っているやつ」という気持をいだくようになるのである。
途中から、「眠れない」という話になったけど、その「眠れない時間に、宿題ができるかというと、できないのである。これも、俺ができないと言ったらできないんだよ。俺が、ものすごく努力して、やろうとしたけど、できなかったから、できないと言っているんだよ。一回だけではなくて、何回も何回もできなかったから、「できない」と言っているんだよ。
けど、そういう、「どうしようもな状態」を経験してない人には、それがどういう状態なのかわからない。きちがいヘビメタ騒音を毎日、長時間あびるということは、そういうことなんだよ」と言ったって。経験がない人には、わからない。
経験がない人にとっては、そういうふうに言われたあとも「そんなの、できるだろ」「根性、だせば、できるだろ」「努力をしたくないからそういうふうに言っているだけなんじゃないか」と思うようことなんだよ。
ぼくの感想を言ってしまえば、ぼくにとってのヘビメタ騒音のような音を、あの音のでかさで、家族が、至近距離で、何時間も何時間も鳴らしていたら、そういうふうに言っているやつらだって、できなくなる。
もう、俺にとっては、これも確定事項だ。
もちろん、俺がそういうふうに確信しているだけだ。そういう状態に、そいつらが、おかれなければ、実際のところは、わからない。本人にとって、一番苦手な音が、あの音のでかさでずっと鳴っていたら、俺とおなじような状態になると思うけど、そんなのは、そういうことをやる異常な人間と一緒に暮らしていなければ、人生において生じないことだ。
しょうじないのだから、確かめようがない。
けど、ぼくは、そうなると思っているよ。
けど、そいつらは、「そうならない」と思っているんだよ。これも、確信に近いわけ。だから、「そうなる」と思っている人間と、「そうならない」と思っている人間のあいだには、溝がある。革新における、溝がある。
ならば、その核心について、特に、言及されなくても、確信しているのだから、確信している部分がいろいろな「その他の思考」に影響をあたえる。
ようするに、前提として「そうなる」と思っている人間が考えることと、前提として「そうならない」と思っている人間が考えることは、必然的にちがってくる。
なので、両者の間には、根本的な対立がうまれる。
じゃあ、どうして、この対立が生まれるのかというと、きちがいきちがい兄貴が、よその家では、一分だって鳴らせないような・でかい音で、ヘビメタを鳴らすことにこだわって、そうしたからだ。
これ、俺の人生のなかにでだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、「すべて」を無視して、鳴らすということをしなかったら、しょうじなかったことだ。