いろいろなことが、つみかさなって、いま、背中がめちゃくちゃに、かゆくて、いたい状態ができあがっているんだよなぁ。これ、ぼくのほうに、落ち度はないのである。通常、考えられる落ち度はない。
これ、ほんとうに、他人が勝手に動いて、あるいは、他人が頑固に動いて、そうなっている。連鎖があるんだよな。
たしかに、俺は食い止められなかったけど、最大限の努力をした。最大限の努力の結果がこれじゃあなぁ。最後のネズミが強烈に問題なんだよな。最後のネズミの影響を、大きく受けている。最後のネズミに到達するまでの連鎖。これ、普通の家だったら、絶対にないことなんだよな。
ともかく、背中がいたがゆくて、いらいらする。破滅的な気分になる。連鎖を考えると、発狂しそうになる。
まあ、こういうことを書くと、「自己責任、自己責任」とはやしたてるやつが発生する。
こいつらは、自分が、自己責任、自己責任とあおって、不幸な他人を不愉快にした責任を、いつ感じるのだろう。こういうことにかんしては、自己責任を感じないんだろうな。
けど、言っておく。そういうことにこそ、自己責任を感じるべきだ。自分が悪い行いをしたのに、まったく責任を感じないなんておかしい。悪い環境に生まれた人の、自己責任を追及するなんて、悪い行為だ。だれがそういうことをすることを、ゆるされているのか?
こいつらは、常にあおり行為をしているのに、本人は、あおり行為をしているつもりがないやつらだ。生まれながらの条件が悪い人の「責任」を追及するってなんだよ?
それが、いい行為なのか、悪い行為なのか、まったくわからないようになっているんだよな。こいつらには、良心がない。こいつらは、独自の道徳観をもっているのだろう。
けど、その道徳観は、悪い道徳観だ。洗脳されて、そういうことをすることが、いいことだと思っている。まさしく、自分が洗脳されたことに気がついてないわけだけど、自分が洗脳されてしまったということにかんして、「責任」を感じるべきだ。こいつらはみんな、悪い宗教の信者みたいなもんなんだよ。
たとえば、しつこい勧誘をされた人は、不愉快な気持になる。ところが、しつこい勧誘をするほうは、しつこい勧誘が悪いことだとは思ってない。「善行」だと思っている。だから、そういうところに、ズレがあるわけ。
* * *
何回も言うけど、不幸な家に生まれれば、不幸な出来事を経験するようになる。不幸な環境のもとに生まれれば不幸な出来事が発生する。不幸な環境をその人が選んだわけじゃない。
ところが、自己責任論者は、その人が不幸な環境を選んだのだと決めつけ、その人のせいにしてしまうのだ。自分のせいだと言うのであれば……すべては自己責任だと言うのであれば……その人が不幸な環境のもとに生まれたのは、まさしく、自己責任論者のせいだということになる。
そりゃ、すべのことが、自分の責任なのだから、自分の責任なんだよ。他人が不幸なのは、自己責任論者の責任だ。自己責任論者が、そういうふうに言っている。
すべては、自分の責任だと言っているだろ。不幸な事故が起こったら、自己責任論者の責任だ。すべては、自己責任論者の責任だから、すべての出来事に対して、自己責任論者は、責任がある。そういうふうに自分で言っているのだから、そうだ。
ところが、自己責任論者は、他人の責任を追及するのである。
他人が不可避的に不幸になったら、その他人のせいだと言うのである。
いや、自己責任論者のせいだろう。自己責任論者が「すべては、自分の責任だ」と言っているのだから、もちろん、その他人が不幸なのは、自己責任論者の責任だ。
自己責任論者は、あらゆる意味で、他人の責任を追及してはいけないのである。
ところが、不幸な人がいれば、不幸なのは、その人のせいだと、なにも知らないのに、決めつけて、その人の責任を追及しはじめる。
自己責任論者にとって、その人は、他人なのだから、他人の責任を追及していることになる。
他人の責任を追及するな。
よく事情がわからないのに、とにもかくにも、不幸な人がいたら、その人が不幸なのは、その人の責任だと決めつけてしまうのである。こういうことにこそ、責任を感じるべきだ。
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しつこい勧誘をされて、不愉快な気持になった人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんに、しつこい勧誘をした人をBさんだとする。自己責任論者というのは、かならず、Bさんの責任を追及することになっている。
「不愉快な思いをしたほう」が悪いということになってしまう。「不愉快な思いをしたほうが、不愉快な思いをせずにすんだはずなのに、不愉快な思いをしたのだから、不愉快な思いをしたほうには、責任がある」と言って、不愉快な思いをしたAさんの、自己責任を追及する。
しつこい勧誘をしたほうの責任は、一切合切問わないのである。
どうしてかというと、しつこい勧誘をしたほうは、しつこい勧誘をすることで、一切合切、不愉快な思いをしてないからだ。
「本人」が不愉快な思いをしたら、不愉快な思いをしたということに、絶対的な責任があると考えるのが、自己責任論者なのだ。
そして、自己責任論者にとって他人である人間の責任を追及しはじめる。
しつこい勧誘をしたBさんが、自己責任論者だとしよう。自分が不愉快な思いをしていないのだから、勧誘をしたということについて、自己責任を感じるわけがない。Bさんは、自分が、Aさんを不愉快な気持にさせたことにかんしては、一切合切、責任を感じないのだ。それなのに、「すべては自己責任」なんて、言っている。
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「不愉快な思いをせずにすんだ」ということについて、ちょっとだけ言っておく。
「Aさんが、Bさんの勧誘をさいしょにぴしゃりと断っていれば、Bさんはそれ以上勧誘をしなかったはずだ。それなのに、最初にぴしゃりと断らなかったから、Bさんが勧誘を続けた。Aさんは、防衛できるのに、防衛なかった。だから、Aさんの自己責任だ」というふうに、勝手に、空想的な設定をつくりあげてしまうのである。
勝手に、そういうものだと、設定してしまう。
自己責任論者が勝手に、Aさんには、落ち度があるはずだと勝手に決めつけてしまうのである。
自己責任論者は、「最初にAさんがぴしゃりと断ったのに、それを無視して、Bさんが勧誘をした」という可能性は考えないのだ。
じゃ、ぼくは、作者だからそういうことにしておこう。
Aさんが、最初にぴしゃりと、Bさんの勧誘を断った。だから、その点において、Aさんは、責任をはたしている。ところが、BさんがAさんの言葉をガン無視して、勧誘を続けたのである。
当然、普通に考えれば、しつこい勧誘を続けたのは、Bさんの責任だということになる。Aさんが断ったのに、それを無視したのは、Bさんの責任だということになる。
ところが、無視したほうの責任は問わずに、「無視されないことわり方ができたはずなのにそれをしなかったのが、Aさんだから、Aさんの責任だ」ということになってしまうのである。「無視されないことわり方ができたはずだ」というのも、また、自己責任論者が、頭のなかで、かってにこしらえたものなのである。
勝手に考えついた前提なのである。
自己責任論者は、言霊主義者や努力論者とおなじで、あとだしジャンケンが得意なのである。事実、無視されたなら、無視されたほうの責任だということになってしまう。結果的に、無視されたなら、無視されたほうに、それ相応の責任があると考えてしまうのだ。
「結果的に無視された……自分なら無視されない方法で言うことができたはずだ……実際に無視された人は、無視される方法でいったからダメなんだ」……と自動的に考えてしまうのである。
「結果が、『黒』なら、やれたほうが、適切に回避しなかったから、やられたのだ」……と自動的に考えてしまうのである。
自己責任論者のなかでは、常に、防衛が可能なのである。
その可能な防衛をしなかったAさんの責任だということになってしまう。Bさんが、無視して、やったことなのに、Aさんの責任だということになってしまうのである。その可能な防衛というのは、防衛できなかったという事実(結果)から、自己責任論者が、空想的に考え出したことなのである。ほんとうは、なかみがないことなのである。
防衛できなかったからこそ、自己責任論者のなかで、防衛できたはずのことになってしまうのである。結果を知っている自己責任論者が、そういう結果をうみださなかった可能性について考えて、そういう可能性があったはずだと勝手に思ってしまうのである。
頭のなかで思っているだけだ。
現実世界で起こったことについて、どれだけのことを、(話を聴いただけの)自己責任論者が知っているのかということが問題になる。
自己責任論者が、頭のなかでひっくり返して、「正反対の結果があったはずだ」と思っているだけなのである。
結果から、そういう結果ではない結果について考えて、そういう結果ではない結果を選択できなかったのは、その人のせいだということにしてしまうのである。自己責任論者が、頭のなかで、そういうことにしてしまう。
ほんとうに、人のせいにばかりしている、自己責任論者なのである。