自分でもわかるんだよなぁーー。はっきり言って、エネルギーがたりない。どれもこれも、なんかやりたいようなやりたくないような、よくわからないことだ。これは、やりたいことね……。やりたくないけど、やらなければならないことがある。当然、やりたくないことは、もっとやりたくない。やりたくないことは、やりたいのか、やりたくないのか、よくわからないことではなくて、あきらかに、やりたくないことだ。
やりたいことをやれば、ちょっとは、気がすむようなところがある。ところが、それがまったくなくなってしまったのだ。
* * *
ネズミ事件あのとから、きちがい親父との接触が増えた。さんざん、魚を、ほぼ、一日中、テーブルの上に、なにも書けない状態で、出しておくな」と言うことを言ってたのに、数か月にわたって毎日、出していたのだ。これ、医者に魚を食べたほうがいと言われたらしいけど、よけいなことを言うな。食べるのはいいけど、どうして、毎日、ほぼ、一日中、魚をテーブルの上に出しておくことにこだわるんだ? これ、医者はそうしていないことなんだよ。普通に料理にして、普通に食べると思っている。けど、きちがいおやじは、きちがいなので、へんなところで、へんなスイッチが入る。そうしたら、「なにを言っても、きかない」……。そうしたら、「なにを言っても、きかない」……そうしたら、「なにを言っても、きかない」……そうしたら、「なにを言っても、きかない」……。十万回ぐらいかきたくなるほど、意地になって、きかない。テープの上に、魚を出しておくことに、いのちがかかっているのだ。きちがいの、意地がかかっているのだ。話はちょっとちがうけど、兄貴のヘビメタのやり方がおなじなんだよ。へんなところで、へんなスイッチが入る。そうしたら、「なにを言っても、きかない」……。へんなところで、へんなスイッチが入る。そうしたら、「なにを言っても、きかない」……。一〇〇〇万回ぐらいかかないと、たりないぐらいの、意地がある。意地がかかったことになってしまう。絶対にゆずらない。
自分が思いついてやっていることを、相手がこまっているからという理由でやめることが、絶対にない人たちなのだ。うちの親父と、うちの兄貴は……。で、そういう『きちがいの意地』がこれまた、ほかの人たちにはわからない。そういう人間と一緒に暮らしている人間じゃないとわからない。特殊な感覚をもった、特殊な気持をもった、特殊なきちがいと一緒に住んでいる人しか、この問題のでかさがわからない。普通の人は、普通の人といっしょに暮らしている。だから、根本的に、わからない。わからないことは、無視してしまう。あるいは、幼稚な想像でおぎなって……「そんなことないだろ」と思ってしまう。「そうだとしても、自分なら説得できる」と思ってしまう。
ともかく、親父との接触が増えると、エネルギーをうばわれるのである。がんがん、うばわれるのである。これ、きちがいがどういう気持で、どういう感覚で、どういう考えて、きちがいをするのか、ほかの人はまったくわかってない。ほかの人は、きちがい家族と一緒に住んでいる人が「こまっている」ということが、わからない。自分の身に起きたことではないので、わからない。きちがいが、常識的な人ではないので、常識的な人には、まったくわからない。きちがい家族と一緒に住んでいる人しか、きちがい家族の問題がわからない。とくに、「感覚器を無視して!!意地になってやってしまうタイプのきちがい家族」というのが、問題なのだ。どれだけこまるか、正常な家族と一緒に暮らしている人にはわからない。ほんとうにまったくわからない。だから、そういうタイプのきちがい家族と一緒に暮らしている人の、困難がわからない。どういうふうにこまるのか、まったくわかってない。そういうタイプのきちがい家族と一緒に暮らしている人が、どういう困難を抱えるか、正常な家族と一緒に暮らしている人は、根本的に、まったくわからない。わからない。わからないということすら、わからない。だから、問題が似てしまうのである。感覚器を無意識的レベルで書き換えて、自分の意地をとおして、迷惑行為をやってしまうタイプの人間も、迷惑行為をされた人間がどういうふうに感じて、どういうふうに迷惑しているのか、まったくわからないのだ。まーーったく、まーーーったく、わからない。自分の意地をとおすためなら、自分の感覚器をだまして、「やったってやってない」ということを、ごり押ししてしまう。本人の感覚では、「やってないこと」なのである。これは、本人がやっているのに、本人がわからないことだ。普通のだったら、本人がやっていることは、本人がわかるのである。やっていることがわからないと行こうとはない。そして、普通に、自分の立場と相手の立場をいれかえて考えることができる人なら、自分だって、「この音のでかさで、自分が聞きたくない音を聞かされたらこまる」というのが、わかるのである。そんなのは、言うまでもなく、わかる。普通の人の場合、言われなくてもわかるから、最初からそんなことをしないのである。けど、きちがい兄貴の場合は、どれだけ言われても、まったくわからないのである。わからないことは「ない」ことなのである。「やったってやってないこと」なのである。で、他者は、そういうきちがい的な家族と一緒に暮らしているわけではないから、そういう感覚のズレがわからないのである。きちがい兄貴がもっている、感覚のズレがわからない。どうしたって、正常な家族と一緒に暮らしている人は、自分の体験から、感覚がズレてない人のことを考えてしまう。想像してしまう。「人間」というものに対して、理想的な人間というものを考えた場合、正常な人が思い浮かべる人間は、「理想的な人間」なのである。経済学における経済人のように、理想的な人間なのである。けど、うちの兄貴は、そういう理想的な人間ではない。うちの兄貴も、うちの親父も、普通の人が普通の感覚では考えられないことを、普通の人が普通の感覚では考えられないほどの意地で、やってしまうのである。これ、いのちが、かかっているんだよ。どんな小さなことでも、いのちがかかっている。ほぼ、一日中、魚をテーブルの上に出すことに、いのちがかかっているのである。きちがいヘビメタを、自分が満足できる音で、自分が鳴らせる時間はすべての時間鳴らすことに、いのちがかがっているのである。これが、みんなわからない。わからないから、すぐに解決できるようなことだと思ってしまう。そうなると、やられているほうがバカに見えるのである。やられているほうが、問題解決能力がない、ダメな人に見えるのである。きちがい兄貴やきちがい親父は、自分の構造をとおして、そういうことを、俺におしつけた。よその人の構造と、きちがい兄貴ときちがい親父の構造の、相性が悪すぎる。これ、きちがい家族ではなくて、きちがい家族にやられた人が、よその人から、悪く思われるのである。しかも、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のように、やられた人の能力が削りとられることにかんしては、よその人が、やられた人のことをバカにするようになるのである。こういう構造が、ずっと、何十年間も毎日、成り立っていいわけがない。数十年間どころか、若い時期の七年間ですら、毎日成り立って、いいわけがない。けど、やられたほうの家族が、やった家族を、殺して排除できなければ、やられることになる。これ、よその人はまるでわかってないけど、本当に、解決方法がないのだ。そりゃ、きちがい親父は正常で、きちがい兄貴だけが異常ならなんとかなるかもしれないけど、カネをかせいでいるきちがい親父が異常だったら、どうにもならない。これ、盲点なんだよ。