精神世界の人は、生まれの格差を無視している。生まれの格差からしょうじる、条件の格差を、ガン無視している。
「どんなにつらくても」というような言葉をひとつつければ、それで、なんか、正しいことを言ったような気持ちになれる。
「XをすればYになる」という構造をもつ文というのは、なにもつけなくても「どんな条件でも、XをすればYになる」という構造をもつ文と、意味的には等価になる。
ほんとうは、生まれの格差をまず考えなければならないのだけど、最初から終わりまで、生まれの格差をガン無視するのである。
そして、格差はないものとして、自分の意見を述べる。
さらに、条件について、質問されたら、「私だって苦労した」と言えば、それで、すんでしまうことになる。
けど、「苦労」という言葉のなかに、すべてにおいて、苦労という言葉で統一化された苦労しか入ってない。ようするに、個別の苦労については、まったく言及してないのとおなじなのである。
たとえば、「苦労」とひとくちに言ったとしても、さまざまな種類の苦労がある。さまざまな条件によってしょうじる苦労がある。苦労の程度もちがう。苦労が持続した期間の長さもちがう。
それなのに、抽象化された「苦労」という、言葉ひとつで、すませてしまう。
けど、本当は、「苦労のちがい」には注目するべきなのだ。
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多勢に無勢で、絶対に伝わらないと思うけど、じつは、「条件の無視」というのは、いいことではない。悪いことだ。条件を無視するから、「無理難題」を突き付けることになるのである。もちろん、精神世界の人が言うことは、言霊理論や引き寄せ理論のように、理論的にまちがっている。そして、精神世界の人は、それを認めない。「認めない」ということが「生命線」だからだ。認めてしまうと、これまた、存在理由がなくなってしまうことになってしまうのだ。だから、存在理由をかけて、絶対に認めないということになる。
条件が悪い人を「無理解」というナイフで刺すことになる。それが、正しいことだということになる。それから、条件が悪い人も、それを求めている。条件を無視すれば、できそうな感じがするからだ。ところが、現実生活のなかでは、条件を無視することができない。条件のもとで暮らしているということになる。無理なのだ。一時的に、条件に縛られているということを、忘れさせてくれるので、意味があるのだ。ところが、これは、同時に、むだなことだ。だって、条件がつくりだしているのだから……。条件がつらい状態をつくりだしている。条件を無視したって、条件は成り立っている。だから、条件を無視しているときも……意図的に無視しているときも、条件が生み出す現実的な出来事がしょうじることになる。現実的な出来事なので、無視できないのだ。なので、無理だということになる。