かりに、走り幅跳びの距離が、そのまま年収に反映する社会について考えてみよう。そうすると、みんな、目の色をかえて、走り幅跳びの練習をするようになる。
走り幅跳びで八メートルとべれば、年収八〇〇〇万円。走り幅跳びで、二メートルとべれば、年収二〇万円ということにしておこう。そうなったら、まるで、走り幅跳びの記録が人間の価値であるように思えるようになるのだ。
そして、実際に走り幅跳びで八メートルとべる人は成功者で、二メートルしか飛べない人は敗者だということになる。
そして、そうなると、とべるようにするにはどうしたらよいかということが、みんなの関心事になる。
そうなると、たとえば、成功者が「コツコツと努力すれば、八メートルとべるようになる」などということを言い出すのだ。実際、その成功者は……そういうふうに言った成功者は、努力をしたとする。
けど、どれだけ、努力をしても、八メートルはおろか、二メートルだってとべない人もいる。努力をすればとべると、努力だけを問題にするけど、八メートルとべるかどうかというのは、その人の身体的な問題がからんでいる。
身体という要素を無視して、「努力」という要素しか見ないようにしているのだ。
そうなると、身体的な問題で、どれだけ努力しても八メートルとべない人は、自動的に、努力してない人になってしまうのである。こういう誤解が生まれる。
ほんとうは、身体的に成長したから、四メートルとべるようになった人が、練習をしていたとする。その人は「自分は、練習して努力したから、四メートルとべるようになった」と思って「努力をすれば、四メートルとべるようになる」というのは正しいと主張する。
しかし、努力をしても、四メートルとべない人もいるので、「努力をすれば、四メートルとべるようになる」と発言したの人の発言内容は正しくないということになる。
けど、信念としてそういうふうに語っている人は、まちがっているということを認めない傾向がある。
そうなると、感情的になって「努力をしてないやつが、負け惜しみを言っているだけだ」というようことを言う確率が高くなる。
そうなると、「努力をして、四メートルとべた人」と「努力をしたのに、四メートルとべない人」のあいだに、亀裂が入るのである。
この両者は、対立するように……しむけられている。
「努力」という要素だけを取り出して、成功するかどうかを、「努力」という要素だけが決めるという妄想的なまちがった考え方が、社会に流布しているので、そういうことになる。
このような妄想的なまちがった考え方が、正しいこととして流布していると、社会の競争圧力をうみ、社会のなかの対立をうみだし、生まれの格差の問題を見えないようにしてしまう。