なにがネガティブなことなのかということは、重要な問題だけど、今回は、その問題には踏み込まないこととして、ただ単に、「ネガティブだ」と「あなた」あるいは「自分」が感じることをネガティブなことだとする。
ほんとうは、ネガティブな出来事が発生すると、ネガティブな感情が発生するのである。
たとえば、きちがい的な親が、こどもを、とりつかれたように、虐待するとする。けど、そのきちがい的な親は、きちがい的な親だから、別に、虐待しているとは思わないのだ。しかし、やられたほうは、不愉快な気持になる。
だから、出来事を描写するときは、子供側の人間が、ネガティブな表現を使うことになる。これは、『きちがい的な親』という条件が、生み出したものなんだよ。
ところが、精神世界の人というのは、生まれの条件をガン無視して、ただ単に、子供側の人が「ネガティブなことを言った」という出来事にだけ着目するんだよ。
そして、因果関係と、時系列的な出来事の順番をいれかえて、「子供側の人が『ネガティブなことを言ったから』父親が子供を虐待したんだ」と言うわけ。
あるいは、「子供側の人が『ネガティブなことを考えているから』ネガティブなことが現実化したのだ」と言うわけ。この場合の、ネガティブなことというのは、虐待されるということだ。
あるいは、「子供側の人が『ネガティブなことをひきよせたから』ダメなんだ」ということを言うわけ。
この場合、原因をつくっているのは、子供側の人間だということになる。そういうふうに、精神世界の人は、みんな、決めつけてしまう。こういうことが、いいことなのか悪いことなのかというと、ほんとうは、悪いことだ。
けど、自分の決めつけを、悪いことだと言われたら、それは、精神世界の人たちは、いい気分がしないだろう。自分は真実を言っているということにこだわるだろう。
そして、「原因をつくっているのは子供側の人間だと言うことは、よくないことだ」ということを言う人のこと……を「ネガティブなことを言う・悪い人間だ」と認知・認識するだろう。
けど、精神世界の人たちが……理解しないことなのだけど……子供側の人のせいにしたのは、精神世界の人たちだ。
子供側の人は、ただ単に、『きちがい的な親という条件』をかかえているから、きちがい的な親に不愉快なことをされるわけだ。
けど、それを、子供側のネガティブな性格によるものだと勘違いして、子供側のネガティブな性格のせいにしてしまう。子供側のネガティブな発言や、子供側のネガティブな性格が、親に虐待されるという現実をつくったと決めつけてしまう。こういうとは、よくないことなんだよ。どうして、これがわからなくなってしまうのか?
「ネガティブなことが発生するのは、おまえのネガティブな発言が原因だ」と決めつけることは、よくないことなんだよ。どうしてかというと、それが原因ではなくて、ちがうことが原因だからだ。
きちがい行為をされてしまう人が、どうして、きちがい行為をされてしまうのか?
そういうところに、まちがった認識があるのである。
上の例では、きちがい行為をするほうに問題があるのである。きちがい行為をする人間の思考回路に問題があるのである。それを、やられた側の発言や、やられた側の性格に問題があるからそうなったのだと決めつけてしまう。精神世界の人たちは、そういうことを常にやっている。