問題なのは、条件を無視した嘘が、あたかも、ほんとうのことであるかのように、考えられていることなのである。
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努力というのは、ほんとうは、「努力をした」「努力をしない」という二値ではない。これは、段階がある。頻度や量や時間が問題になる。
ところが、これまた、客観的な指標が、ないのである。もともと、「成功」というのが、なにをさしているのかわからない言葉であり、また、「努力」というのも、なにをさしているのかわからない言葉なのである。
しかし、あたかも、それぞれに「意味が決まっている」ような印象をあたえる。結果のほうからの「十分」「不十分」というのも、勝手に、その人が、そのように判断しているだけで、実際には、「十分」なのか「不十分」なのかわからないものなのである。
しかし、偽である命題を真であると思い込み、結果から、原因のほうにやじるしをのばすことに、まったく疑問を感じない人が、勝手に、「成功してないなら、努力が不十分なのだ」と断定してしまう。この断定は、あやまりだ。勝手に、自分ではない別の人のことを、判断しているだけなのだ。
もともと、努力をしたとか努力をしないということ自体が、主観的なことなのだから、いかようにも言えることなのだけど、それを、結果から考えて「努力しなかった」「十分な努力をしなかった」と決めつけてしまうことには、問題がある。
もともと、能力や環境のことを無視して、努力だけに注目して、努力をすれば、成功するということを言うことがおかしいのだ。能力のちがいが結果に影響をあたえないわけがないだろ。環境のちがいが結果に影響をあたえないわけがないだろ。努力をするのに必要な道具があるのかどうか、努力をするのに必要な時間があるのかどうかということについても、差がある。そういうことをすべて無視して、ただ単に努力のみが結果に影響をあたえるという暴論が、正しいこととして流通してしまっている。
これが問題の根本によこたわっている。
能力と言ったって、いっぱいある。能力については、いろいろな問題がある。能力というのは、はかれる能力しかはかっていない。けど、はかれる能力だけが能力なのかというとそうではないのだ。
なので、まず、どの分野において、どの程度能力があるかということさえ、ほんとうのことを言うと、決められない。さらに、環境といったって、いろいろだ。環境というのは、さまざまな要素を含んでいる。
なので、ここでも、一般的には、一般的にこういうことが結果に影響をあたえるだろうという要素をつまみだして、その要素について語るということになる。あるいは、これまた、測定するということになる。
しかし、たとえば、家族の性格……その人が属している家の、ほかのメンバーの性格というものだって、じつは、ひとことでは語れないものなのである。こういうことを、客観的に語ろうとすれば、かならず、とりこぼしがしょうじる。
努力をだけを(結果に影響をあたえる)要素として取り出し、努力不足だとか努力しなかったと決めつけることは、環境において劣位にある人や、能力において劣位にある人を、おとしめる行為なのである。「努力をすれば成功する」という言葉は、こまっている人を簡単にバカにできる「言葉の道具」なのだ。