「成功」のほうは自己申告制なのに、「努力」のほうは自己申告制では、まずいのかという問題がある。何度も言うけど、「成功」というのは、特に客観的な基準が決まっているわけではなくて、その人が「成功した」と考えれば、成功したということになっている。
たとえば、年金で月換算一二(じゅうに)万円もらえるとする。それで、成功だと思える人は、コツコツと働いたから、年金で月換算一二万円もらえるようになったと考えて、年金で月換算一二万円もらえることを、成功の内容だととらえることができるのである。
あるいは、自分が好きなときに読書をできる環境を手に入れたとする。これだって、成功したと考える人は、成功したと考えるのである。なので、「成功」の具体的な内容は決まっていない。
社会的な成功のことだと、いちおう、なんとなく、成功の内容を決めたにしても、具体的な内容は、個々人でちがうのである。社会的な成功というのは、あなたにとって、なんですかということになる。社会的な成功に関しては、それぞれに、イメージがちがうのである。
たとえば、Aさんは、あることを思い浮かべて「こういうのが社会的な成功だ」と考えるし、BさんはAさんとはちがう別内容を思い浮かべて「こういうのが社会的な成功だ」と考えるのである。
だから、成功したかどうかについては、個人が勝手に決めることができるのである。
努力したかどうかについても、じつは、本人のなかで努力したと思うのであれば、努力したことになるのである。ところが、成功してないなら、努力をしなかったことになると考えるやつからが出てくるのである。
そして、「努力をすれば成功する」という文は正しいと主張するのである。
けど、この文は、まちがっている。
しかし、あたかも、正しいこととして流通してしまっている。これが問題なのだ。
条件について、なにも言及されてないということは、どのような条件でもそれが成り立つということなのだ。ほんとうは、条件が影響をあたえている。
現実世界では、そうだ。
さまざまな条件が影響をあたえている。
ところが、この文を信じている人の頭のなかでは、条件がまったく存在しないので、条件に関係なく努力をすれば成功するということになると思ってしまう。
いまかりに、年収八〇〇万円以上なら、社会的に成功したということにしておこう。離婚をして、くるしい状態でも、 年収八〇〇万円以上なら、社会的に成功したということにするのである。その場合、「努力をすれば、社会的に成功をする」と言えるのかどうかということについて考えてみよう。
たとえば、CさんとDさんがいるとする。Cさんは、ものすごい努力をしたけど、年収六〇〇万円で、年収八〇〇万円以上、かせぐことができなかった。努力をしても、社会的に成功しなかった。だから、「努力をすれば、社会的に成功をする」という文はまちがっているということになる。
ところが、Dさんは、Cさんが努力をしなかったということを言い出すのである。Dさんは「努力をすれば、社会的に成功をする」という文が正しいと思っているので「成功してないなら」「努力をしなかった」と考えてしまうのである。
これは、まちがった考え方だ。
X側の要素の値(オン・オフ)によって、Y側の結果(オン・オフ)が決まるのである。Y側の結果(オン・オフ)によって、X側の要素の値(オン・オフ)が決まるわけではない。そもそも、命題が『偽』なのであるから、最初から、考えるべきことではないのだけど、Dさんが、まちがった推論をして、Cさんにいちゃもんをつけている。
Cさんが「努力した」と言っているのだから、X側の値はオンだ。「努力をすれば社会的に成功する」という文がまちがっている。命題としてあつかうなら、「努力をすれば社会的に成功する」という命題は『偽』だ。『偽』である命題を『真』であると思い込んでいる人が、まちがった推論をして、人をののしっている。
そりゃ、「やった」のに、「やってない」と決めつけられたら、不愉快な気持になるだろう。まちがった文を信じて、人を不愉快な気持にさせるなっ! なっ!
* * *
ある種を(誰かが)植えれば、ある木が(かならず)育つとしよう。ある木が育っていれば、ある種を(誰かが)植えたと言えるのかどうかというと、言えない。どうしてかというと、ある木が自然に育つ場合があるから。原因から結果へという流れを、→(右矢印)で考えるとする。そうすると、矢印の向きは決定的に重要なんだよ。