ほんとうに、「自分だって」おなじことをさされば、できなくなるのに、それをガン無視する。「自分だって」おなじことをさされば、できなくなるのに、「おなじことをされても、自分なら、自分はできる」という前提で、ものを言ってくる。これ、能力のちがいじゃないのである。条件のちがいなのである。そして、条件のちがいがずっと続くと、能力のちがいになる場合がある。そりゃ、ずっと、やられていたら、能力をうしなうだろう。そういうことがあってもおかしくない。ずっと、きちがい的な騒音を鳴らされれば、睡眠障害になる。適切な時間に適切な時間の長さ、眠ることができなくなる。その場合、適切な睡眠能力をうしなったということになるのである。だから、できないのだけど、他人がそれを認めない。他人が考えているのは、普通の騒音なのである。きちがい家族によるきちがい的な騒音じゃない。その他人というのは、きちがい家族によるきちがい的な騒音を一秒も経験したことがない。なので、経験的に、「それが続くと」睡眠障害になるということがわからない。本人がわからなければ、「自分なら、それが続いたって睡眠障害なんかにならない」と思うわけだから、「それが続くと」睡眠障害になるということをガン無視して「できると言えばできる」とか「過去は関係がない」とかと言う。「できると言ったってできないものはできない」ということを言っても、「できると言えばできる」と言って、できないというとを認めない。「それが続いて」睡眠障害になったのに、過去は関係がないと言う。自分は、それが続いて睡眠障害になったことがないので、それが続くと睡眠障害になるということがわからないのだ。自分だって、それが続けば、睡眠障害になるのに、自分の場合は、睡眠障害にならないという前提で「過去は関係がない」と睡眠障害になった原因を否定する。睡眠障害になった原因をガン無視する。
実際、自分は、きちがい的な騒音を聞かされるということが(人生のなかで)なかったので、きちがい的な騒音聞かされずに、睡眠障害にはならなかったのである。ただ、それだけだ。もちろんほかの原因で、睡眠障害になることはある。けど、きちがい的な家族によるきちがい的な騒音で睡眠障害になった場合と、別の原因で睡眠障害になった場合はちがうのである。まあ、だから、睡眠障害だとしても、程度や理由がちがう。ともかく、実際にきちがい家族と一緒に暮らしてないので、きちがい家族がきちがい的な態度で鳴らすきちがい的な騒音は経験したことがないということが重要だ。自分が経験しなかったことにかんしては、無視できる状態になってしまうのである。自分と相手の立場を置き換えて考える力が欠如しているので、「そういうことをされれば、(自分だって)そうなる」ということが予想できないのである。実際、自分がされずに、そうならなかったので、「できる」という意味で比較優位なのである。そして、言われるほうは「できない」という意味で比較劣位なのである。