まあ、こういうことを書くと「よその人」とも、泥仕合になるのだけど、これは、しかたがない。
そもそも、こういう泥仕合だって、きちがい兄貴が、ヘビメタをああいう音のでかさで聞こうと思わなかったら、しょうじなかったことだ。「宿題ができない」と言うことについて書いたけど、実際にできないぼくと、話を聴いて「できる」と思う「よその人」のちがいがある。
これは、実際にその「よその人」が、「苦手な音」でそういうことを、経験すれば、やはり、「宿題できない」ということになる。「音ぐらい鳴ってたって、宿題ぐらいできるだろ」と考えている人は、「ヘビメタ騒音でできない」ということを聴いても「なんだ!!そんなの!!」ぐらいにしか、思わない。
これは、きちがい兄貴が「しずかにしてくれ」と言われたときの態度とおなじだ。きちがいだから、たいした音で鳴らしているとは思ってないのだ。フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。
けど、これは、聴覚が正常なら、フォークギターぐらいの音ではなくて、何十倍もでかい音で鳴らしているということがわかるはずのことなんだよ。
けど、それを認めると、フォークギターぐらいの音までしずかにしなければならない。
それは、絶対にいやなのだ。
こういう考えをもっているのだけど、それが、意識的にはそう思ってない状態なのだ。意識的には、本人だって、ほかの音で聞かされたら一分だってたえられないようなでかい音で鳴らしているつもりがなくて、本当に、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。
本人の意識的な認識では、あの極端にでかい音が、フォークギターぐらいの普通の音なのだ。無意識的なレベルで感覚器を書き換えている。ほんとうは、無意識的な要求がなければ、きちがい兄貴本人にしたって、それがでかい音だということがわかるのである。
うちでは鳴らしてはいけないほど、でかい音だと言うことがわかるのである。
けど、自分がものすごくでかい音で鳴らしたいので、でかい音で鳴らしてないと思うことに成功している。感覚器を書き換えて、認知認識を書き換えてしまうのだ。そういうことを、ごく自然にできる人間なのだ。
これは、きちがいだ。
そして、都合がいいのである。普通なら、一分間だって、鳴らすことが出ない音のでかさで、ずっと鳴らすことができる。しかも、意識的なレベルでは、「でかい音で鳴らした」ということがわからないようになっている。物理的な音のでかさと人間が感じる音のでかさはちがうのだけど、本当に、人間の主観で言って、何十倍もでかい音で鳴らしている。
あんなの、ほんとうに、よその家で鳴っていたら、一日目の一分後には、「いいかげにろ」「うるさいぞ」と(ほかの家族に)に言われて、鳴らせなくなるのである。
けど、うちは、まず親父が、兄貴とおなじように、無意識的な書き換えをしてしまう人間なのである。そして、四人家族のなかに、ふたりもそういう人間がいるということについて、よその人は、まったく考えられない状態なのである。
よその人は、無意識的な書き換えなんて関係なく、フォークギターの音はフォークギターぐらいの音のでかさで聞こえて、フォークギターの音よりも何十倍もでかい音は、何十倍もでかい音として聞こえるのだ。
言っておくけど、きちがい兄貴だって、「自分がでかい音で鳴らしたい」という気持がなければ……無意識的な欲求がなけれフォークギターの音はフォークギターぐらいの音のでかさで聞こえて、フォークギターの音よりも何十倍もでかい音は、何十倍もでかい音として聞こえる。
だから、普通の人は、兄貴がそういう構造をもっている人ではなくて、普通の人だと思って、俺にいろいろと言ってくるわけだ。
「お兄さんにちゃんと言えば静かにしてくれる」「家族で相談すればいい」と言う。それは、よその人にとってみれば、効果的な方法なのだけど、うちでは、効果的な方法ではないのだ。
きちがいが無視して、絶対に、フォークギターの何十倍もでかい音で鳴らしてないという気持で、何十倍もでかい音でがんがん鳴らすからだ。
で、よその人だけではなくて、きちがい兄貴もそう思っているのだ。きちがいだから、自分がそうしているということがわからない。自分自身がやっていることにかんして、普通の知覚・普通の感覚・普通の認知・普通の認識があるわけではない。
ようするに、きちがいにやられた俺だけ、きちがい兄貴がきちがいだと言うことがわかるのだ。感覚器を書き換えてしまうようなきちがいだということがわかるのだ。よその人と、きちがい兄貴本人は、ぜんぜんそんなことがわからない。
きちがい兄貴は、絶対の意地でそうしているのだけど、一分も、そんなことはしてないつもりで暮らしている。
だから、これは、「忘れてしまった」のではない。こういうことは、親父にも成り立っている。
だから、こまるんだよ。きちがい兄貴やきちがい親父がもたらすこと……この感覚器の書き換えということを利用してもたらすことが、よその家では、発生しないことなのである。
ようするに、ぼくがかかえている家族の問題は、よその人がかかえている家族の問題とは、質的に異なるのである。よその人は、ごくまれなケースをのぞいて、感覚器を書き換えてしまうような家族と一緒に住んでいない。感覚器を書き換えて自分の維持を常に通すような家族と一緒に住んでない。
この感覚器を書き換えて自分の意地を常に通すような家族はつねに、そういうことをしたつもりがないという状態で生活をしている。自分にとって不都合なことは、無意識的なレベルで無視して、頑固に頑固にやるのに、やった時間のことは、ぜんぜん覚えてないような状態で暮らしている。「やったってやってない」のだ。
不都合なことを認めることができない性格であり、感覚器を無意識的なレベルで書き換えているのだから、「そういうことをした」ということ自体が、本人にとって不都合なことになったら、おなじやり方で、無視して認めないのである。「やった」と認めない。
だから、ずっと、「やってないつもり」のまま、頑固にやりきって暮らしているということになる。そういう特殊な個人について、よその人はまったく知らない。
どうしたって、自分の常識で、考えてしまう。
そうすると、ぼくが言っていることが、へんなことに感じるのである。だから、「エイリさんの説明のしかたが悪い」とか「エイリさんがお兄さんにちゃんと言ってない」というような判断をしてしまうのである。
これ、一般の人にとってみれば、不愉快なことなのである。エイリさんが言っていることを認めるのは、一般人にとって不愉快なことなのである。
「なんか不愉快だ「なんか頭にくる」と感じることなのである。
これは、これは、その人がもっている自我が一時的に不安定になるからだ。これは、まえに書いたから、もう書かないけど、そういうところがある。