これ、ほんとう、みんながみんな、経験することだったらちがうんだよ。俺が経験したのとおなじレベルの騒音を家族が鳴らすということを、みんながみんな経験したらちがうんだよ。その家族というのが、特殊な感覚の持ち主で、ものすごくでかい音で鳴らしているのに、また、聴覚が(最初は)正常なのに、普通の音で鳴っていると、すくなくても意識レベルでは本当に思っている家族だという設定だ。まあ、みんなの家族がそういう家族だったら、特殊じゃなくなってしまうのだけど。じゃあ、神がいて、神が、みんなの頭に、みえないヘッドギアをつけて、ぼくが経験した騒音を毎日、ぼくが経験した時間の長さ経験するようにしたら、ちがうんだよ。そうなれば「わかって」ちがうことを言うことになる。みんな、わかってないから、盲僧理論を前提にして、「そんなのはたいしたことはない」「自分だったら平気だ」というようなことを言う。
わかってない人は、みんな、努力に関しては、「努力の方向がまちがっていたからダメなんだ」というようなことを言う。けど、これも、わかってないから言えることなんだよね。ともかく、うまれの格差は、影響をあたえる。努力なんてできなくなる場合だってあるし、努力の方向が決められてしまう場合がある。これ、「うまくいかなかった」という結果から、あとだしじゃんけんで、「適切な努力しなたっかたら、うまくいかなかったんだ」と言っているだけなのである。あとだしじゃんけんなんだよなぁ。なにか、正しい方向の努力があったにちがいがないけど、正しい方向の努力をしなかったからダメなんだという、あとだしの「手」なんだよ。なにか正しい努力の方法があったというのが、空想の理論なんだよ。俺は、きちがい兄貴が鳴らさないように、正しい努力をした。けど、きちがい兄貴のきちがい度が高かった。正しい努力がむだになった。鳴っているなかで、正しい努力なんてないんだよ。
神様が、こいつら全員に、見えないヘッドギアをつければ、俺が言っていることがわかるよ。自分が苦手な音が、あの至近距離で、あの音のでかさで、どれだけ静かにしてほしいときも鳴っているなんて、そんなのに、たえられるわけがない。一日、二日の話じゃない。ずっと続いた。きちがいがきちがい感覚で無慈悲に鳴らし続けた。自分だって(きちがい兄貴だって)ほかの音だったら、一分間鳴っていただけで、はげしくどなっておこるような音なのに、自分が、どでかい音で鳴らしたかったから、しずかな音で鳴らしたということにしてしまった。そういうきちがい回路を脳みそに搭載しているから、どれだけ言ってもしずかにしない。そして、家に、もうひとり、おなじ回路を搭載しているやつがいるのだ。こいつは、きちがい感覚で、「絶対に注意しないと決めて」注意しなかった。よその人は、「そんなの音で鳴らしているのに親が注意しないなんておかしい。エイリさんが嘘を言っているにちがいがない」と思ってしまうのだ。もちろん、親父にはそんなことは理解できない。きちがい親父の感覚というのが、これまた、ほかの人にはブラックボックスでわからない。「ない」と思ってしまう。