理解はしないと思うけど、いちおう、説明しておく。これは、これまでに何回も何回も説明してきたことだ。けど、もう一度、説明をしておく。
たとえば、有機水銀をある一定量、摂取してしまうと、だれでも、まっすぐに歩けなくなるとする。とりあえず、ある一定量のことを限界突破量ということにしておこう。Aさんは、汚染魚を食べるまえは、まっすぐに歩けた。
けど、有機水銀が入っている汚染魚を食べているうちに、まっすぐ歩けなくなった。なので、Aさんは「まっすぐ歩けなくなった」「まっすぐ歩くことができない」と言った。
「できない」と言ったから、できなくなったのではなくて、汚染魚を食べたから、まっすぐに歩くことができなくなったのだ。何度も言うけど、汚染魚を食べるまえは、まっすぐに歩くことができた。
ところが、言霊主義者は、「できないと言うから、できないのだ」ということを言い出す。思霊主義者は「できないと思うから、できないのだ」ということを言い出す。過去無関係論者は「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」ということを、言い出す。
そして、言霊主義者は「できると言えばできる」と助言し、思霊主義者は「できると思えばできる」と助言し、過去無関係論者は「汚染魚を食べたという過去は現在に影響をあたえないので、汚染魚を食べたという過去の出来事にこだわらないようにすれば、気持ちよくすごすことができる。こだわっているからダメなんだ。こだわりを捨てて、目の前のことに集中すれば、まっすぐ歩けるようになる」と助言するのだ。
こんなの、リンチ。言葉のリンチ。
しかも、ほんとうに、彼らは、そういうふうに思っているのである。
みんな、無理なことを言っている。
限界突破量の水銀を摂取すれば、みんな……言霊主義者も、思霊主義者も、過去無関係論者も……みんな、まっすぐ歩けないようになる。
Aさんと、 言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者のちがいは、有機水銀を限界突破量だけ、摂取したかどうかということだ。
有機水銀を摂取して、くるしい思いをしているということをAさんが言えば、言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者は、「自分だってくるしい思いをしたことはある」ということを言う。これは、事実なのだろうけど、まっすぐ歩けないという症状が出てないのだから、その「くるしいこと」というのは、まっすぐ歩けないという症状の原因になるものではない。
実際、そういうことを言う言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者は、まっすぐに歩けのだから……。そして、これは、Aさんができないことなのである。
ちょっと横道にそれるけど、「できる」というのは、ポジティブでいいことであるけど、「できない」ということはネガティブでよくないことだという考え方をする人たちがいる。こういう人たちから見ると、Aさんが、ネガティブなことばかり言っている悪い人で、言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者は、ポジティブなことを言っているよい人たちだということになる。こいつも、リンチに加担している。
まっすぐ歩けなくってしまった以上、比較劣位だ。
まっすぐに歩ける人たちは、比較優位だ。
まっすぐに歩けるということだけで、比較優位になり、「えらそうなことを言える立場」をゲットすることができる。自分はできる、おまえはできない……という図式が頭のなかに成り立っている。どんな理由があろうとも、できないのであれば、それは、できないということだから、できる自分のほうがえらい」という感じ方がある。
ようするに、説教をしてもいい立場なのだ。そりゃ、できない人ができる人に「こうすればいい」と言っているわけではないので、普通に考えると、それは問題がない行為のように見える。けど、理由について勘違いしているんだよ。
そして、だれだって、限界突破量をこえて、有機水銀を摂取すれば、まっすぐに歩けなくなるのだから、同等の存在なのだ。おなじ存在なの。原因について勘違いをして、無理なことを比較劣位の人に言うということが、この人たち……言霊主義者や思霊主義者や過去無関係論者がやっていることだ。
「無理なこと」なんだよ。原因について勘違いをするな!!
* * *
自分なら、そういうことがあっても、まっすぐ歩けると思っているのである。その思い込みがまちがいなのである。だいたい、自分だって、そういうことがあったら、まっすぐ歩けなくなるだろうと思っている人は、そんなことを言わない。そういうふうなことというのは、まあ、限界突破量の水銀を摂取することであり、そんなことを言わないの、そんなことというのは、言霊的な説教、思霊的な説教、過去無関係論的な説教のことだ。