言霊的な助言なんてまったく役に立たないのだけど、言霊主義者は、じゅうぶんに有効な、役に立つ助言をしてやったと思うわけだよ。そして、言霊のトリックについて説明しても、納得してくれない。
ものすごく悪い条件が成り立っている人は、じつは、言霊的な助言をされるとこまるのだ。こまってしまうのだ。言霊主義者における「言霊」というのは、ものすごい力をもっているものなんだよ。けど、言霊には、まったく力がない。うそなんだよ。言霊というものが宿っていて、言霊にはすごい力があるというところが、嘘なんだよ。だから、例として出てくるのは、じつは、言葉の力だったりする。で、言葉の力というのは、言霊の力にくらべて非常に弱いものなんだよ。そこにもトリックがある。なにかものすごい力で現実をかえてまうようなことができるような話になっているけど、実際には、自分に言い聞かせるというような役目しかない。それだっていいじゃないかと思うかもしれないけど、これまた、自分に言い聞かせるやり方で、効果がある場合と効果がない場合がある。とりあえず、自分に言い聞かせるようなやり方をアファーメーションと呼ぶことにする。たとえば、ヘビメタ騒音にたたられてない状態で、アファーメーションをすれば、アファーメーションの効果は、あるかもしれない。けど、ヘビメタ騒音にたたられている状態で、アファーメーションをしても、効果はないし、負の効果がある場合がある。効果はないか、あるいは、負の効果がある。ようするに、アファーメーションをしただけ、悪くなってしまう。言霊主義者も普通の人も、悪い条件というものについてまったく考えてないのである。ヘビメタ騒音のなかでアファーメーションすること……。こんなの、感情がボロボロになってしまう。みじめでみじめでしかたがない気持ちになってしまう。
たとえばの話だけど、言霊に問題解決をしてしまうようなものすごい力があるとする。そして、アファーメーションにも、ほんの少しの力があるとする。言霊主義者というのは、言葉の力と言霊の力を、いつも、混同している。ほんとうは、言霊主義者が言っている「言霊の力」というのは、「言葉の力」だ。ようするに、自分に言い聞かせるような効果しかない。問題をほんとうに解決してしまうような効果はないのだ。どうしてかというと、言霊には、超自然的な力と、それを機能させる超自然的なしくみがないからだ。言葉には言霊が宿っているということになっていて、言葉を使うことと、言霊の力を使うことが、まるで、おなじことのように感じているみたいなのだけど、言葉を使うことと、言霊の力を使うことは、ちがうことなんだよ。言霊主義者は、おなじことのように感じているみたいだと、ぼくが思っている。言葉を使うことと、言霊の力を使うことはちがう。けど、これ、言葉を使えば、自動的に言霊の力をつかったことになっているみたいなのである。言霊主義者がそう考えているとぼくが思っている。
たとえば、虫歯になったとしよう。「虫歯はなおると言えば、虫歯はなおる」……これが、言霊主義者が考えていることだ。けど、言霊主義者は、じつは、言霊には力がないということを知っているので、自分のことにかんしては、言霊的な解決方法を採用せず、現実的な解決方法を採用する場合が多い。そして、言霊主義者はそのことにまったく疑問を感じないのだ。ほんとうは、矛盾しているのだけど、矛盾しているとは思ってない。言霊主義者なら、「虫歯はなおる」と言って、虫歯をなおすべきなのだ。虫歯になったら、「虫歯はなおる」と言って、言霊の力を利用して、虫歯をなおすべきなのだ。言霊は絶対であるわけだし、言霊の力は、すごい力なのだから、当然、虫歯ぐらい、ちょちょっとなおせる。なおると言えばなおるのである。なおると言ったのに、なおらないなんてことはないのである。言霊の力は、虫歯をなおせる力なのである。だから、虫歯をなおすには、言霊の力以外、必要がないのである。しかし、言霊主義者は、こういうものすごい、言霊の力を、まったく信じていないので、実際には、歯医者に行ってしまうことが多いのである。言霊を利用して虫歯をなおすのではなくて、歯医者の医療技術を使って虫歯をなおそうとするのである。こんなのは、矛盾だ。何度も言うけど矛盾だ。しかし、言霊主義者は、その矛盾に気がつかない。だから、歯医者に行ったあとも、「言霊は絶対だ」なんてことをほかの人には言うのである。なんで、現実的な場面で「言霊による解決方法」を言霊主義者は採用しないのか? それは、言霊主義者が言霊の力をまったく信じてないからだ。言霊に虫歯をなおす力なんてないと思っているからだ。
いっぽう、アファーメーションの力というのは、悪い状態でないなら、気分に影響をあたえるかもしれないというような言葉の力だ。たとえば、すでに虫歯になった状態というのは、悪い状態なのである。虫歯になったとき、「虫歯はなおる」と何回も念じるように言ったとする。これは、条件が悪いときのアファーメーションだ。アファーメーションには、言葉の力しかない。自分で自分を説得するような力しかない。言霊に設定されている「超自然的な力」なんてない。こういう意味で、じつは、言霊思考というのは、カルト思考だ。カルト的な考え方なのである。
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たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが言霊主義者で、Bさんは虫歯をかかえている人だ。AさんのBさんに対するアドバイスというのは「虫歯はなおると言えばなおるので、なおると言えばいい」というものだ。しかし、Bさんが「虫歯はなおると言ってもなおらなかった」とAさんに言うと、Aさんは、Bさんの言い方が悪いと言ってBさんのせいにする。言霊理論がまちがっているということを認めない。また、Aさんは、「Bさんが何回も言わないからダメなのだ」ということを言って「虫歯がなおるまで、何回でも言えばいい」ということを言う。これも、じゅうぶんな回数、言わないBさんのせいだと言うのだ。言霊には虫歯をなおすような力はないということを、認めない。けど、Aさんが、虫歯になったら、Aさんは、言霊で解決しようとせず、歯医者に行くのである。Bさんに、Aさんが熱心に言っていたことというは、いったいなんなのか?
自分のことであれば、現実的な対処をするのに、ひとごとだと、言霊的な対処をすすめるのである。そして、自分のことについて現実的な対処をするのは、言霊の力がないことを知っているからなのである。もし、Bさんが、虫歯をかかえたまま「虫歯なおる」と言い続けたら、虫歯は、より進行して、より悪い状態になるだろう。それは、もちろん、Aさんの言うことを信じてしまったBさんの責任だ。けど、Aさんにはまったく責任がないかと言うと、Aさんにも責任がないわけではないと思う。ようするに、言っただけの責任がある。それは、もちろん、法的に問題になるような責任ではない。しかし、言えば言っただけの責任はある。
AさんはBさんにまちがったアドバイスをしたあとも、まったく責任を感じず、また、「言霊は絶対だ」「言霊(理論)は正しい」と思っているので、同種のアドバイスを、こまっている人にし続けることになる。ようするに、Cさん、Dさん、Eさんといった、未来の被害者が潜在的にいるということになる。しかも、自分は、歯医者に行くのに、「なおると言えばなる」ということを信じている状態なのである。これは、何度も言うけど、矛盾している。本人は、自分の「現実度」にあわせて、「言霊的な解決法」と「現実的な解決法」を使いわけているのに、ひとごとだと、全部が、自分にとって現実味がないことなので、(ひとごとだと全部が)言霊的な解決法で解決できることになってしまうのである。言霊主義者のなかでそうなってしまう。言霊主義者に悪意はないのだろうけど、これは、あまりいいことではない。
それから、ぼくが言霊理論を批判した場合、言霊主義者がどういう反応をするということを考えた場合、ぼくが言霊理論を批判したあとも、ずっと「言霊は絶対だ」とか「言霊理論は正しい」とかといった考え方をもち続けるということになる。で、ぼくに対する悪い印象ができあがるので「ネガティブなことばかり言ってると、そのうち痛い目を見るぞ」というような感情がわく……みたいなのである。言霊理論に対する批判は、言霊主義者にとって不都合なことなのである。なので、ぼくに対して「不都合なことを言ってきたわるいやつだ」というようなイメージができあがる。まあ、感情的な問題だよね。で、じゃあ、「エイリさんはいい人だ」と言霊主義者が言った場合、ほんとうに、「エイリさんはいい人だ」と思うことができるかどうかなんだよ。実際には、もうすでに、不愉快な感情が発生しているために、「エイリさんはいい人だ」と言っても、言霊の力が発動せず、「不愉快なことを言ってきた悪いやつだ」というようなイメージをもったままなのではないかと思う。言霊の力が本物?なのであれば、言ったら、そういうふうに思うのである。言霊主義者にとってエイリさんは、「言霊理論の批判をした悪いやつ」ではなくて「いい人だ」ということになるのである。そういうふうに、言霊の力を使って、自分の感情を書き換えることが可能だということも、じつは、言霊主義者が言っていることのなかに含まれている。そうなると、自分のことはすべて、自分の意志で制御できるというような意志教徒とおなじような理論をもっているということになる。言ってしまえば、言ったとおりになるのだから、「言う」という方法で、自分の制御はできるということになる。「言う」というのは、「言う」意志によって発動すればいい。なので、言うことによって「自分のことはすべて、自分の意志で制御できる」ということになる。言霊主義者が、意志教徒になってしまうのだ。自分の感情だって、言ってしまえば、その通りになるのである。
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言霊主義者は、条件の悪い人に「無理なこと」をおしつけている。けど、それは、言霊主義者にとっては「無理なこと」ではないのである。けど、無理なことなんだよ。これ、ただ単に言霊主義者の経験のなかに、条件が悪い人の経験がはいっていないので、言霊主義者がわかってないだけかもしれないのだ。あるいは、走り幅跳びで八メートル以上とぶというように、一部の人間しかどれだけ努力してもできないことかもしれない。けど、ともかく、経験的に言って無理だとわかってることを、おしつけている。けど、言霊主義者は「無理だと言うから無理なんだ」とか「できると言えばできる」と言って、無理だということを認めない。言霊主義者が、条件が悪い人の条件で、それができるかというと、ほんとうはできない。できないのだけど、条件が悪くないので、できないということが、わからない。その条件だとできないということが、ぜんぜんわかってない。その言霊主義者には、その人がかかえている条件下の出来事がないので、経験的にわからない。その条件下で暮らしたことがないので、その条件下だとできないということが、経験的に(言霊主義者)にはわからない。「できないと言うからできない」のではなくて、できない条件下だから、できないのだ。「無理だと言うから無理なのだ」ということではなくて、無理な条件下だと、そのことが無理なことになるのである。ところが、経験がなく、わかっていないだけの言霊主義者が「できると言えばできる」「無理なことではないと言えば、無理なことではなくなる」ということを言うわけ。ようするに、その条件下では「無理だ」ということを認めないのだ。
それでは、言霊主義者は「認知症はなおる」と言うことで認知症をなおすことができるのかというと、できないのだ。無理なのだ。「虫歯はなおる」と言うことで、虫歯をなおすことができるのかというと、できないのだ。無理なのだ。そんなのは、言霊主義者だってできない。ところが、自分のことは棚上げなのである。「瞬間移動ができると言えば、瞬間移動ができるようになる」と言って、人には「瞬間移動ができると言うことによって、瞬間移動ができるようになること」を求めるけど、本人は「瞬間移動ができると、言ったって、瞬間移動なんてできるわけがないだろ」と思っているのだ。
多くの言霊主義者は「無理だとわかっていることにかんしては」言霊的な解決法をこころみようともしない。ようするに、多くの言霊主義者は「虫歯はなおる」と言って、虫歯をなおそうと思わない。「虫歯はなおる」と言うことで、虫歯をなおすのは無理だと経験的にわかっている。けど、人には「虫歯はなおると言えば、虫歯はなおる」と言って、無理なことをおしつける。言われた人が「できない」と言えば、「できないと言うからできないのだ」と、できないということを認めない発言をする。少数の言霊主義者は「虫歯はなおる」と言って、虫歯をなおそうとして、歯をうしなう。