まあ、言霊主義者は「瞬間移動とか、死者をよみがえらせるとかというようなことじゃなくて、人間ができることなら、言えばできるようになる」と言うかもしれない。
けど、これがちがうんだよ。
人間にとって不可能かどうか?
「人間にとって不可能だと普通の人が考えることにかんしては、言ったって現実化しない」と考えているのであれば、「できると言えばできる」ではなくて、「人間ができることなら、できると言えばできる」と言えばいいのだ。
なんだろうがかんだろうが、どんな条件だろうが、「できると言えばできる」というのが、ほんとうは、言霊主義者が言っていることだ。そういう意味で、言霊主義者は、じつは、無理なことを言っているのである。
ほんとうの意味では、「瞬間移動できると言えばできる」のだし「生き返ると言えば、死者が生き返る」と言っているのだ。
ところが、こういうところでは、言霊主義者も、「現実」にまけるのである。
だから、「瞬間移動できると言えばできる」とか「生き返ると言えば、死者が生き返る」とかと言うのは、はずかしいと感じている。瞬間移動や死者を生き返らせることは、普通の言霊主義者は、できないことだと認めている。
けど、ほかの人にえらそうにものを言うときは、完全に、なんだろうがかんだろうが、どんな条件だろうが、「できると言えばできる」と思っている。そういう前提でものを言っている。
相手がなにかの条件について言及すれば「そんなのは、いいわけだ」「そんなのはあまえだ」「そんなのは関係がない」と言ってしまえば、それでおしまいだ。
内側にもっている、非現実的な妄想……なんだろうがかんだろうが、どんな条件だろうが、「できると言えばできる」という……妄想は、表面に出なくてすむ。
ようするに、そういう前提でものを言っているけど、それ自身については言及しなくてもいいということになっている。
どういう前提で自分がものを言っているのかということについて、明言しなければ、自分の意見を言えないということはない。自分がもっている、内なる妄想については、言及しなくても、ちゃんと意見が言える。
そういう「前提」でものを言うことができる。
「人間ができることなら、できると言えばできる」とか「人間ができることなら、できると言えばできるようになる」とかと、トーンを落としてもむだだ。
人間ができることでも、すべての人間ができるわけではないからだ。
たとえば、走り幅跳びで八メートル以上とぶことを考えてみよう。
オリンピックのような大会では、走り幅跳びで八メートル以上とべる人は、何人かは、いる。彼らは人間だ。だから、「人間は、走り幅跳びで八メートル以上とぶことができる」と言えるのだろうか?
言えない。
人間という集合のなかには、さまざまな人間がいるんだよ。
人間は、ひとりひとりちがうんのだよ。
たとえば、Aさんと、BさんとCさんがいるとする。Aさんができることは、Bさんもできるか?
いや、Aさんが人間で、Bさんも人間だから、Aさんができることは、Bさんもできる……という推論はまちがっている。
AさんもBさんも人間でも、Aさんができることと、Bさんができることはちがう。もちろん、AさんもBさんも両方ともできることはある。
けど、それは、『人間だから』ではない。
AさんができるからAさんができるわけだし、BさんができるからBさんができるわけだ。Cさんができなかったら、Cさんは人間ではないということはない。
人間だから、できるわけではないのだ。
基本的にそういう問題がある。
言霊主義者はトーンを落として「人間ができることなら、言えばできる」と言うけど、「それじゃあ、あなたは走り幅跳びで八メートル以上、とぶことができるのか?」と問いただしたい。
「走り幅跳びで八メートル以上とぶことができる」と言えば、言っただけで、走り幅跳びで八メートル以上、とぶことができるようになるのか?
ならないでしょ。
なるんですか?