どうして、暗いことを考えてないのに、暗いことが起こるかというと、自分の思いとは関係なく、他者が行動し自然現象が発生するからだ。
他者と自然現象が、「暗いこと」を発生させる。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんはアパートの管理人で、大学中退者に対して偏見があるとする。Bさんは、大学生だったけど、大学をやめたとする。Bさんにとっては、大学を中退した人は、すでに学生でなく、働いているわけでもないので、信用のおけない人間だということになる。
ようするに、Aさんは大学を中退した人に偏見がある人なのである。
そういう偏見をもっているので、大学をやめたBさんに「出ていってくれ」と言ったりする。Bさんの性格は善良で、悪いことをしようと思わない人なので、アパート代についてはちゃんと考えていたのだ。しかし、AさんにはBさんの内面がわからず、Aさんを、ブラブラした「信用がおけない人物だ」と思ったのである。
大学生のときのBさんの内面と、大学をやめたあとのBさんの内面がかわったわけではないのである。大学生のときはまじめな性格だったけど、大学をやめたときにふまじめな性格になったわけではない。けど、Aさんは偏見をもっているので、その偏見に対応した考えをもつようになる。それは、Aさんの偏見がなせるわざだ。
Bさんは、「出ていってくれ」とショックなことを言われることになる。ようするに、自分が考えていなかった「暗いこと」が発生したのである。
一般人から見ると、大学を中退した人ばかりではなく、無職全体が、悪いことをしそうな人に見えるのである。一般人は無職に対して偏見をもっているのである。なので、無職という範疇に「自分」がはいってしまった場合、どれだけ、善良な人であっても、人から、悪いことを言われたり、差別を受けることになる。
それは、無職という属性が問題なのだ。そして、一般の人の「無職に対する偏見」が問題なのだ。
ともかく、無職に対して偏見をもっている人が多い社会では、無職は、『いやな目にあうこと』が多くなるのである。無職に対して偏見をもっている人が多い社会では、無職は、『不愉快な思いをすること』が多くなるのである。
不愉快な出来事が発生すれば、それは、「悪いことが発生した」ということになるのである。そりゃ、不愉快なのだから、悪いことだ。
別に、とある無職さんが「暗いことが起こる」と思わなくても、暗いことが、頻繁に起こることになるのである。それは、まわりの人の偏見が原因で、その、とある無職さんが、「暗いこと」を考えたからではない。
けど、他者の偏見が理由だと思えない無職の人は、「暗いことを考えたから、暗いことが起こったんだ」と思ってしまう可能性がある。
どうしてかというと、「頻繁に」不愉快なことが発生するからだ。会う人、会う人、みんな、無職に対して偏見をもっているとする。その場合、無職であるだれかは、偏見にさらされることになる。
他者は、別に、無職に対して、あたりまえの行動をしているだけだと思っているので、「悪いことはしてない」と思っている。無職に対する当然の行動が、基本的に、無職者の『不幸』をつくっているのである。
みんながみんな、無職に対して偏見をもっている社会では、みんながみんな、無職に対して、つらくあたるということになる。
なので、無職は「頻繁に」不愉快な思いをすることになる。
だから、別に、「暗いことを」を考えなくても、「暗いこと」は起こる。偏見のある他者の態度や発言によって、不愉快になった場合、不愉快なことは、自分にとって「暗いこと」なので、「暗いことが起こると考えなかった場合」でも、「暗いこと」は、頻繁に起こるようになるのである。
「暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方のなかには、「他者」という存在が含まれていない。
「自分」が暗いことを考えると、「自分」の身の上に暗いことが発生すると考えているのである。自分の頭の中ことしか問題にしてない。
けど、自分が生きている社会には、他人がいるので、他人よって「暗いこと」がもたらされる場合があるのである。
なので、「自分の考え」では制御不可能なのである。暗いことを考えるのは「自分」だろ。
「自分」が暗いことを考えなければ、暗いことは起こらない……と考えているのである。そういう前提が成り立っている。けど、この前提がまちがっている。なので、自分が暗いことを考えてないのに、暗いことが起こる。
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「他者と自然現象が、暗いことを発生させる」と書いたけど、自分自身が、暗いことを発生させる場合もある。けど、これは、自然現象のなかに入れておいた。たとえば、熱いものに触ってやけどをした場合について考えてみよう。この場合は、物理的な現状なのである。なので、身体を含めた物理的な存在を考えて、その相互作用によって、「暗いこと」が発生する可能性がある。自然現象と書いたけど、この自然現状のなかにはすべての物理的な現象が含まれるとする。身体を構成する細胞。細胞を構成する分子。分子を構成する原子。そういったものが、物理的な運動をして、たとえば、やけどをしたという状態をつくりだしている。
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ところで、たとえば、ヤカンにふれて、やけどしたとしよう。そのあと、「ヤカンにふれるとやけどをする」と暗いことを考える必要があるのかどうかと言えば、ある。「ヤカンにふれるとやけどをする」から「ヤカンにふれないようにしよう」と思うのである。「ヤカンにふれないようにすれば、やけどをしなくてすむ。人間は、過去の経験から、未来の出来事を推測することができる生き物なのである。「やけどをする」というのは、明るいことか、暗いことかを考えると、暗いことだ。暗いことを考えて、実際にその暗いことが起こるのをさけるのである。なので、暗いことを考えることは必要なことなのである。
いつまでもいつまでも、学習せずに、熱いヤカンにふれて、やけどをするというのは、よくないことだろ。暗いことを考えないから、何回も何回も、「暗いことを現実化」してしまうのである。