もう、これは、さんざん言ったことだから、まとめとして書いておく。
たとえば、「私は階段から落ちる」と言わなかったにもかかわらず、階段から落ちたということについて考えてみよう。
「言わなかった」のに、現実化したのである。もし、言ったことが現実化するのであれば、いつもいつも、毎回毎回、「私は階段から落ちる」と言ったあと、実際に階段から落ちて、階段から落ちるということが現実化されたということになるのである。
ところが、実生活のなかでは、「私は階段から落ちる」と言って、階段から落ちる場合は、少ないのである。そして、「私は階段から落ちる」と言ったあと、階段から落ちた場合は、落ちる意思があって、わざと、落ちたのである。
「私は階段から落ちるぞ」「階段から落ちよう」と思って、わざと、落ちたのである。
この場合は、そういう意思があったということだ。
「私は階段から落ちる」と言ったあと、落ちた場合、「私は階段から落ちる」という言霊の力によって、落ちたのではない。そうしようと思って、落ちた。
これは、自分の意思だ。意識的に、落ちようと思って、落ちたのだ。
言霊の超自然的な力によって、階段から落ちるということが、現実化したわけではない。
自分で落ちようと思って落ちただけだ。
「このままでは、落ちる」と思ったことについて考えてみよう。いちおう、いまは言霊の話をしているので、「このままでは、落ちる」といった場合について考えてみよう。
この場合、階段のステップの上で、バランスをくずして、落ちる体勢になったのだ。「このままでは落ちる」という発言は、バランスをくずしたという認識によるものなのである。別に、落ちそうではないときに「このままでは落ちる」と言ったので、言霊の超自然的な力によって、実際に落ちるということが現実化したわけではない。
あるいは、「落ちそうだ」という意味での「このままでは落ちる」という認識が頭のなかに発生したわけではない。ちゃんと、「落ちそうだ」と考える理由があるのである。そして、声に出して言う前に、落ちてしまう場合がほとんどなので、「このままでは、落ちる」と思っているうちに、落ちてしまうのである。
* * *
「私は階段から落ちる」と言わなかったのに、落ちた場合について考えてみよう。からだを、階段の一部や、階段の下の一部にぶつけたとき、「痛い」と思う。「痛い」と言ったとする。
「痛い」と言ったから、言霊の超自然的な力によって「痛い」という現実が発生したのか?
ちがう。
からだのしくみによって、「痛い」と感じたのである。「痛い」と感じるからだのしくみがなければ、どれだけ「痛い」と言っても、「痛さ」を感じない。
さらに言ってしまうと、階段から落ちたという出来事は、今現在のからだの状態に影響をあたえている。「過去のなんて関係がない」というわけではないのだ。「過去は現在に影響をあたえない」ということでもないのだ。
階段から落ちたという「過去の出来事」が現在の「痛さ」に影響をあたえている。
もちろん、からだがそういうふうにできているので、そういうふうに感じるという側面もある。
けど、「過去の出来事」が現在の状態に影響をあたえているのは、まちがいがないことだ。
階段から落ちたという過去の出来事が、現在の「痛さ」に影響をあたえているのである。「痛い」と感じている現在の状態に影響をあたえているのである。過去は関係がある。過去は現在に影響をあたえている。
「過去なんて関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と考えている人を過去否定論者と呼ぶことにする。
過去否定論者にしても、階段から落ちたときは、「階段から落ちたから、痛い」と思っているのである。ちゃんと過去の出来事と現在の状態に対する認知・認識が成り立っている。
「階段から落ちたことは、からだを階段の一部にぶつけたということとは関係がない」とか「階段から落ちたことは、過去の出来事だから、今現在の状態に影響与えない」とか「階段から落ちたことは、今感じている痛さとは関係がない」と考えるわけではないのだ。
ちゃんと、「階段から落ちて、からだぶつけたので、からだが痛くなった」と「過去の出来事」の影響を認めている。
普段、自分がそうふうふうに、過去の影響について考えているのに、人に説教をするときは、「過去なんて関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と言ってしまうのだ。こんなのは、おかしい。
言霊論者であり、過去否定論者である者は、二重にまちがっている。