やる気というのは、「やる気よ出てこい」と自分に命令すれば、出てくるものではない。これは、じつは、過去のいきさつが重要だ。繰り返された現実が重要だ。現実的な出来事の連鎖が重要だ。そりゃ、だれだって、最初はきれいごとを言って頑張るけど、そのうち、だめになる。一キロ走っている人の状態と、二〇〇〇キロ走っている人の状態は、ちがうのである。
ヘビメタがどれだけきついかわかってないなぁ。ヘビメタ騒音生活がどれだけきついかわかってないなぁ。ヘビメタ騒音生活の連続がどれだけきついかわかってないなぁ。だれにだって、苦手な音はある。ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタの音は苦痛ではないけど、俺は、ヘビメタの音が苦手な音なので、苦痛だった。それも、床からの、超細かい振動が影響をあたえているみたいなのである。
きちがい兄貴が鳴らした音というのは、でかい。これは、ほんとうに、普通の家では鳴らせない。普通の家で、きちがい兄貴が鳴らしたい音で、一分でも鳴らした「うるさい」と家族が文句を言って、やめさせられる音だ。きちがい兄貴にしたって、マンションに住んでからは、持ち日に一分も鳴らせないのである。そういう音で、自分の気がすむまで、がめてがめて、全部ががめて、鳴らしていた。当時のきちがい兄貴にとっては、それで当然だったのである。もちろん、これには、きちがい親父に対する復讐心がかかわっている。これ、きちがい親父が、うちでずっとやってきたことなのである。自分のきちがい的な意地をとおして、きちがい的な行為を絶対の意地で、どれだけ家族が反対してもやりきるということずっとやってきた。そして、本人だけは、まったくそういうつもりがないのである。これ、自動機械なんだよ。爆発的な意思でやるけど、本人は、他人からどれだけなにを言われても、自分と相手が言っていることがまったく関係ないことのように思えるのである。まあ、本当は、もっとひどくて、ほんとうにほんとうに、「関係」がまったくわからない。たとえば、きちがい兄貴で言えば、自分がきちがいヘビメタをでかい音で鳴らしているわけだから、「うるさいからやめてくれ」と言われたら、相手が言ってきたことと、自分がやっていることの関係が、わかるはずなのである。ところが「やめてくれ」と言われたら、逆上して、「関係性」をぜんぶ、度返しにして、認めないまま、遮断してしまうのである。だから、本人はまったく関係がないつもりのままなのである。これがこまるんだよ。おやじが、きちがい兄貴との関係で、ハンダゴテを買ってやらないということをしたのだけど、それで相手がこまっているということは、発狂して認めないのである。「つかえるつかえる」と絶叫したら、もう、それで、「関係」が切れているのである。だから、言われるたびに、そうやって、発狂して、本人が怒り狂えば、それで、本人としては、関係がないまま、すんでしまっているのである。これが、きちがい兄貴のヘビメタとまったく同じなのである。きちがい親父の竹事件、きちがい親父の悪臭事件、きちがい親父のネズミ事件、きちがい親父のネズミ工事事件、全部が全部、そういう構造が成り立っている。で、本人は、ほんとうに、「そのとき」怒り狂うだけで、ぜんぜん関係がない人のままなんだよ。これが、こまるんだよ。「ぜんぜん関係がない人のまま」というのは、ようするに、ほんとうに、そのことに自分がかかわっている気分というのがまったくない。けど、きちがい的な意地でごり押しする。殺してやめさせないと、やめない。けど、自分がそうやって、踏ん張って、やったというつもりが、ほんとうにないんだよ。一日に一三時間、きちがいヘビメタを鳴らして、一日に四〇回文句を直接言われても、自分が、一三時間ヘビメタを鳴らさないでしずかにしたときの気持ちとおなじなんだよ。きちがい的に意地をはってやった行為の時間というのが、まったくぬけているのとおなじなんだよ。これ、こまるんだよ。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音事件は、きちがい親父のすべての事件をあわせたものよりも、ずっとずっと大きな影響をあたえている。これ、ほんとう、みんなわかってない。どれだけ足をひっぱられるかみんなわかってない。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音があの距離で、あの音で鳴っていると、宿題ができない。けど、宿題ができないということを、俺がほかの人に……教師を含めて……ほかの人に言っても、ほかの人は、宿題ができないということを認めないである。これ、だれだって、苦手な音があの音のでかさで鳴ってたら、できなくなる。けど、ほかの人にはきちがい家族がいないので、そういうことがない。みんな、ヘビメタ騒音の話を聴いて、フォークギターや三味線ぐらいの騒音だと思っているみたいなのだ。そんなんじゃない。普通のステレオ騒音ぐらいの騒音だと思っているみたいなのだ。そんなんじゃない。そんなんじゃない。