自分が言わなかったことが、現実しかなかった場合については、自分が思っても、言わなかったことがあるかもしれないので、そのまま、自分が言わなかったことが現実しなかった場合という項目を書いたけど、自分が思わなかったことが現実化しなかった場合については、不定になる。
だって、自分が思わなかったことが、現実化しなかったとき、どうやって、現実化しなかったということを知覚・認識できるのかという問題がある。こんなの、項目としても、入れていいのかどうか、まよう。
自分の思いが、外面に反映するはずだという感覚は、幼児的万能感がもたらすものだ。
幼児的万能感にしたがえば「自分の内面に一致して、自分の外面(外界)が、動くべき」なのである。けど、これは、事実ではない。自分の内面に一致しないことが、自分の外面で、たくさん発生している。
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言ったことが現実化すると言うけど、自分が生まれるまえに、「生まれる」と言ったから、うまれるということが現実化したのかという問題がある。もちろん、言葉を知らない赤ん坊は「うまれる」と言うことができない。
自分が言わなくても、母親が言えば、「言ったことが現実化したことになる」と言霊主義者は言うけど、自分にとって母親というのは、他者だ。
言霊主義者の場合、ご都合主義なので、突然、他者が言ったことでも、言ったことが現実化するということを言い出すけど、ほんとうは、自分が言ったことが、外界で現実のものになるという意味で、「言ったことが現実化する」と言っているのだ。
他者が言ったことまで、現実化すると言うのであれば、見境なく、いろいろなことが発生するということになる。これは、自分が言わなかったことが発生する可能性があるということを意味している。
実際、自分が言わなかったのに、だれが他者が言ったので、その他者の言ったとおりになったというのは、自分にとっては、「言わなかったことが現実化した」ということになる。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。このふたりが、勝負をする予定があるとする。
結果の可能性としては、(一)Aさんが、勝つ (二)Bさんが勝つ (三)引き分けになる (四)勝負がおこなわれない という四つの可能性があるとする。この場合、試合続行不可能というような状態になった場合は、(三)の引き分けになるということにふくめるとする。
ともかく、この四つ以外の可能性がないとする。
まあ、じゃあ、五目として、四つ以外のことが起こるという項目を設けておこう。その場合、かならず、五つの項目のうちどれかになる。
自分がAさんが勝つと言った場合、普通の意味で、言霊思考というのは「自分が言ったことが、現実化する」ということだから、もちろん、Bさんが勝ったときは、言ったことが現実化しなかったということになる。
けど、Dさんが勝負のまえに、Bさんが勝つと言ったとしたら、「Bさんが言ったことが現実化した」ということになる。どんな場合でも、「だれかが言った」ということにすると、どんな結果が出も、「言ったことが現実化した」のだから、言霊理論は正しいはずだと(言霊主義者は)思うことになる。
けど、だれかが言ったということをどう証明するのか?
そして、こっちのほうが肝心なのだけど、どんな結果が出ても、だれかが言ったから、「言ったことが現実化するということは正しい」と主張するなら、「言ったことが、現実化する」と、わざわざ言う意味があるのかということになる。
そりゃ、なにが起こっても、「だれかが言ったから現実化したのだ」ということになれば、特に「自分が」言ったことが現実化するということについてのべなくてもいいことになる。
そして、「だれかが言った『から』現実化したのだ」と書いたけど、それはほんとうに、だれかが言ったから、現実化したのかという問題がしょうじる。
「Bさんが勝つ」とDさんが言ったから、Bさんが(言霊のすごい力で)勝ったのか?
Dさんの発言とは関係なく、Bさんが、勝ったのではないか。なんで、Dさんの発言が、そんなに大きな影響をあたえると考えるのだ。BさんがAさんよりも、いろいろな点ですぐれていたから、Bさんの実力で、Bさんが勝ったということにはならないのか?
Dさんの発言というのは、そんなにも力があることなのか。Dさんは、BさんともAさんとも関係がない、一個人だ。Bさんがどれだけ弱くても、Dさんがひとこと「Bさんが勝つ」と言えば、Bさんが勝ってしまうものなのか?
Dさんが「Bさんが勝つ」といった「あと」、Bさんが別の原因で勝ったのではないのか。Dさんが「Bさんが勝つ」と言ったということ、Bさんが勝つ原因になってないのではないか。
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AさんとBさんが試合をして、Aさんが勝つか、Bさんが勝つかどっちかになるという場合について考えてみよう。その場合、Eさんが、Aさんが勝つと言い、FさんがBさんが勝つと言ったとしよう。Bさんが勝って、Aさんが負けたとする。その場合、Eさんが言ったことは現実化しなかったということになる。まさに「言ったことが現実しかなかった」ということになる。「言ったことが現実化しない」場合もあるということになる。「言ったことが現実化する」と、どの口で言うのだ?
言ったことが現実化することもあるし、現実化しないこともある……。それなら、現実化しないこともあるのだから「言ったことが現実化する」とは言えない。これは、ほんとうは、言霊主義者が言う「言ったことが現実化する」というのは、「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%現実化する」という意味なのだけど、言霊主義者が卑怯にも、「言ったことが現実化しない場合だってある」という意味を 「言ったことが現実化する」という言葉のなかにふくめているので、言霊主義者は、正反対の結果に遭遇しても、まったく矛盾を感じないのだ。
ある言霊主義者が「アバウトでいいんだ」と言ったことがある。「言ったことが現実化する」「言ったことが現実しかないときだって、ある」「アバウトでいいんだ」……と言っているのである。これは、言霊主義者がでたらめを言っているということを意味している。
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「言ったことが現実化する」→「言ったこととは、正反対のことが現実化する」→「言った通りになる場合もあるし、言ったと通りにならない場合だってある」→「言ったことが現実化する」→「アバウトでいいんだよ」
まあ、だいたいこんな流れになる。それから、「単純だから正しい」と言う。
ようするに、「言ったことが現実化する」という言霊理論は、単純なので正しいと言うのだ。これは、正しさにこだわてっいるということにはならないのか?
「言霊理論の矛盾を指摘したものは、正しさにこだわっているからダメなんだ」などと言うのだ。自分が、「単純なのが正しい」「言霊理論は単純だから正しい」と正しさにこだわりまくりなのに、なにを言うのか? まあ、実際には言霊主義者は「言霊は単純だから正しい」と言ってしまうのだけど、今回は、この問題については言及しない。
だいたい、「アバウト」という言い方にも、ごまかしがある。「アバウトなのが正しい」「こんなのは、アバウトでいいんだ」という意味で、言霊主義者が「アバウト」という言葉を使うのだけど、「アバウト」という言葉であらわされていることは、程度が、たいして、ちがわないということなのである。程度において、さしてちがいがない場合は、「アバウト」という表現でいいと思うけど、正反対のことが成り立っている場合は、「アバウト」という表現は不適切だ。
どれだけ、アバウトに言っても、言霊理論は正しくない。どれだけアバウトに言っても、言霊主義者の発言には矛盾したところがある。アバウトに言えば、「矛盾してない」ということにはならない。
この場合の「アバウト」という言葉は、矛盾を正当化するために使う言葉になっている。
どれだけでたらめなことを言っていても、アバウトに考えれば、正しいのである。言霊主義者はそういうふうに考えるのだろう。そのわりには、「言霊は絶対に正しい」「言霊は絶対だ」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」などと言うのだ。「絶対に正しい」と言って、正しさにこだわっている。「アバウトでいい」ということは、「正しさにこだわらなくてもいい」ということだ……。……ある言霊主義者にとっては、そういうことだ。その言霊主義者が、正しさにこだわって「言霊は絶対に正しい」と言っているのだ。こういうところでも、矛盾しているなぁ。
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言っちゃ、悪いけど、「矛盾を指摘されても、でたらめなことを言い続ける」「自分は矛盾してないと思っている」ということころが、ほんのちょっとだけ似てるんだよなぁ。言霊主義者と、うちの親父やうちの兄貴は、そういう点で、ほんのちょっとだけ似ているところがある。どれだけ指摘されても、「矛盾」は頑固に無視。頑固に無視。頑固に無視。ずっと、矛盾したことを言い続ける。矛盾は、頑固に無視。矛盾は、頑固に無視。