言霊主義者は「言った」という別の原因について考えてしまう。そして、「そうなったのは、言ったからだ」と別の原因について言及することになる。これは、ちゃんと理由があって、くるしい状態になっている人にとっては、屈辱的なことなのだ。ここのところは、言霊主義者にはわからないと思うけど、言霊主義者は、たいへん「失礼なこと」をしている。たとえば、有機水銀の接種で、水俣病になった人は、有機水銀を摂取したから、水俣病になったのだ。これがまあ、ぼくの言うところの「ちゃんとした理由」だ。有機水銀で水俣病になった人が、「くるしい」と言った場合、体内に入った有機水銀と体の働きによって、「くるしい」と感じる事態がしょうじて、「くるしい」と言っているわけだ。ところが、言霊主義者は、「くるしい」と言ったから、くるしくなったと判断してしまう。水俣病になってくるしいと言っているのに、「くるしい」と言ったから、くるしくなったのだと考えてしまう。水俣病ということを認めるなら、「くるしいと言ったから、くるしいと感じる水俣病になった」と思ってしまう。まあ、水俣病と言うことをはさまなくても、言霊主義者は、「水俣病になると言ったから、水俣病になった」と考えてしまう。「言ったことが現実化する」と考えているのだから、そう考えてしまう。けど、言ったからではなくて、水銀を摂取してしまったから、水俣病になったのだ。だから、そういう「ちゃんとした理由」を無視して、「言ったからそうなった」と断言してしまう。「相手」のことについて、そういう勘違いをして、「相手」のことについて、別の理由を考え出して、「別の理由でそうなった」と言ってしまうのだ。別の理由というのは、この場合「言った」ということだ。「相手が言った」ということだ。「水俣病になる」と、実際に水俣病になった人が言わなくても、言霊主義者の頭のなかでは、「現に、水俣病になっているなら、水俣病になると言った」ということになってしまう。だから、そういう意味でも、「勘違いしたこと」を言っていることになる。「言ったことが現実化する」と考えているので、水俣病になったなら、どこかで「水俣病になる」と言ったにちがいがないと考えてしまうのだ。「ちがいかない」と言うのは、強い推量であって、断定ではない。けど、言霊主義者にとっては、それは、断定だ。事実、「水俣病になる」とその人が言ったから、その人は、水俣病になったと考えてしまうのだ。こういう意味で、言霊主義者は、「相手」に対して、無礼なことをする。しかし、言霊主義者は、「言霊は絶対だ」「言霊は、宇宙をつらぬく絶対法則だ」と考えているので、自分がまちがったことを言っているとは思わない。無礼なことをしたとは思わないのだ。言霊主義者が、いま書いたような説明を読んでも、納得しない。「言霊は絶対に正しい」と言って、「言霊が正しい」ということにこだわる。実際には、言霊ではなくて、言霊理論が正しいということにこだわるのだけど、言霊主義者が、言霊と言霊理論を区別しないので、言霊に関する、言霊主義者の発言について言及する場合は、そのまま、書く場合もある。
言霊主義者は認めないと思うけど、言霊主義者は「相手」に対して、無礼な発言をしている。
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水俣病の場合が、一番説明しやすいので、水俣病の場合について語ったけど、これは、別に水俣病の場合だけではなく、ほかのことにも成り立っている。きちがい的な理由で、こどもを虐待する父親がいたとする。この場合、子供側の人間が「父親が自分を虐待する」と言ったから、子供側の人間が実際に「虐待されたのだ」と考えてしまうのだ。言ったことが現実化すると、考えるので、そういうふう人が得てしまう。どこかで、子供側の人間が「きちがい的な理由で、父親に虐待される」と言ったから、実際に「虐待される」ということが発生したと考えしまうのだ。言霊理論にしたがえば、そうなる。けど、これはまちがっている。たとえ、子供側の人間が「きちがい的な理由で、父親に虐待される」と言ったって、親がまともな頭を搭載しているのであれば、その親がきちがい的な理由で子供を虐待することはない。言ったって、虐待されない。「虐待される」と言ったって、実際には、虐待されない。親がまともなら、子供側の人間がどれだけ「親に虐待される」と言ったって、虐待されない。逆に、親がきちがい的な理由で虐待するような人間なら、「親に虐待される」と言わなくても、虐待される。きちがい的な理由で虐待される。親が正常なら、「虐待される」と言ったって、虐待されないけど、親が異常なら「虐待される」と言わなくても、虐待される。この、「やられたほう」が「言った」ということが原因で、そうなったと考えるのは、この世のなかでは、「不自然な考え」なのだ。何度も言うけど、言霊主義者は、言った人の言ったという行為にしか注目してない。虐待というようなことを考えると、虐待したほうと、虐待されたほうの二者がいるということになる。ところが、言霊主義者は、虐待されたほうのせいにしてしまうのだ。どんな場合でも、「虐待したほう」の話は、言霊主義者の話のなかには出てこない。言霊主義者の話のなかには「虐待されたほう」しか出てこない。これは、現実の事象を考えるなら、「不自然」なことだ。こういう思考の偏りについて、言霊主義者は、まったく考えてない。
その人……という言葉を使うと、問題があるので、とりあえず、Aさんともう人がいるとする。Aさんの身の上に起こったことは、Aさんが、「言ったから」Aさんの身の上にしょうじたと、言霊主義者は考えてしまう。Aさんが赤ん坊で言葉を話せないときから、ずっと、Aさんが言ったからそうなったと考えてしまうのだ。自己というものを考えるなら、Aさんの身の上に起こったことは、Aさんのまわりの人とはまったく関係なく、Aさんの自己内の「言葉」によってしょうじたと、言霊主義者は考えてしまうのだ。「自己」しか考えてないのである。「自己」を中心とした、自己にかかわりのある人は、出てこない。原因としては出てこない。相互作用は一切合切ないのだ。Aさんの自己内のことだけが問題なのだと考えてしまうのだ……言霊主義者は。そういう意味で、言霊主義者と自己責任論の相性はいい。
「他人」について考えている考えている場合でも、その他人というのは、「自己」だけで存在する他人なのだ。ようするに、「自己内」の言葉だけが問題なのだ。これが、問題だ。実際には、この世の事象というのは、「自己内」で生成したものだけではない。この世の事象というのは、外界の物質や外界の人間と「自己」との触れ合いによってしょうじる部分もある。ようするに、外界の物質や外界の人間と「自己」との関係によってうみだされてしまう出来事がある。ところが、言霊主義者の場合は、「自己内」ですべてが完結してしまうのだ。(注1)
まあ、そういう意味では言霊主義者と「すべては受け止め方の問題だ」というような意見との相性はいい。
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けど、これも、言霊主義者が、「言霊思考」をしているときだけだ。言霊主義者は、現実的な生活のなかで、「言霊思考」をしない場合がある。
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たとえば、母親が赤ん坊を抱いていたとしよう。ところが、母親が、赤ん坊を床に落としてしまったとしよう。その場合、「母親が、自分を床に落とす」と赤ん坊が言ったから「床に落ちた」わけではない。あるいは、赤ん坊が「落ちる」と言ったから「落ちる」ということが現実化したわけではない。ところが、言霊主義者は、そういうことなのだということを、言っているのだ。赤ん坊のほうが「落ちる」と言ったから、「落ちる」ということが現実化したと考えるのだ。「赤ん坊が、落ちると言ったから、言ったとおりになった」と言霊主義者者は考えるのだ。けど、その赤ん坊は、言ってない。母親が落とした。落とされたほうの赤ん坊は、「母親が、自分を床に落とす」は言ってない。言ってないのだから、現実化しないはずなのである……言霊理論にしたがえば……。
言葉を使えない者が、どうやって、言葉を使うのだ? 言葉をしゃべれないとしても、いろいろな出来事が発生している。そういうことから考えても、「言えば、言ったことが現実化する」という考え方は、まちがった考え方だ。 「言えば、言ったとおりになる」という考え方は、まちがった考え方だ。言わなくても、いろいろなことが発生している。「その人」が経験する「出来事」はその人が言った「出来事」だけではない。