きちがい兄貴がやったことの「総量」というものが、みんな、みんな、みんな、わかってない。不可避的にどういう状態になるか、みんな、みんな、みんな、わかってない。わかってないところで、くそを言う。
自分はそうならなかった」という立場でくそを言う。もちろん、自分はやられたけどそうならなかったわけじゃない。やられてないから、そういう状態にならずにすんだだけだ。
だから、別に能力的なちがいではないのだけど、能力的なちがいがあると勘違いして、「自分はそうならなかった」という立場で、くそを言うのである。くそを言うのである。
そして、たとえば、言霊みたいな話だけど、言霊みたいな話をする人は、みんな、みんな、みんな、地震をもっている。言霊理論に自信をもっている。これが、どれだけ幼稚なことか、ぜんぜんわかってない。
自信をもって、まちがったことを言うな。
でたらめなことを言うな。
ほんとうに、でたらめなのに、「真実」だと思っている。
くそえらそうな態度で、くそなことを言ってくる。
けど、この人たちは、きちがい家族に毎日毎日、ずっとずっと、何時間も何時間も、きちがい騒音でじゃされたことがないので、そういう騒音生活全体がどういうことなのかわかってないのだ。
これの、影響は、この人たちが考えているよりもずっとでかいことなんだよ。
けど、この人たちは、過小評価する。無視する。影響を無視する。影響のでかさを無視する。影響の不可避性を無視する。
だから、やられてないところで、「自分がやられたって平気だ」ということを、ずっと言うわけである。それは、やられてないから、わかってないだけだ。
この理解力のなさというのが、ひどいのである。理解力のなかさが、……これは、言ってしまってはいけないことなのだけど……きちがい兄貴とおなじだ。相手の状態が、まったくわかってないのである。
けど、きちがい兄貴は、俺にやった人間だけど、そういう人たちは俺にやった人間ではないのである。そのちがいがある。だから、そのちがいを認めている。理解力のなさは、きちがい兄貴とおなじだけど、ほかのところはちがっている。理解力のなさにかんしても、きちがい兄貴は頭の構造がおかしいから、理解できないのだけど、ほかの人は、ただ単に経験がないからわかってないだけだということは、理解している。