言霊主義者だって、階段から落ちるまえに、階段から落ちると言ってないし、痛いと感じるまえに、痛いと言ってない。
物理的な理由により、痛さを感じたあと、痛いと言っている。ほぼ同時である場合もあるけど、痛さを感じたあとに、痛いと言っているのだ。
「痛いと言う『から』痛くなる」と、言霊主義者はよく言うけど、痛さを感じたあと、痛いと言っている。言霊主義者だって、痛くないのに、「痛い」ということは少ないはずだ。そして、痛くないのに痛いと言うと、痛いと言ったから、痛くなるというケースは、ほとんどないはずだ。
ただ単に「痛いような気がする」というような感じだろう。実際に痛くなくても、「なんとなく、痛いような感じがするんじゃないかな」というような、めちゃくちゃに弱い痛さしか感じていない。「痛いと言ったから感じる痛さ」は、そういうレベルの痛さだ。
自己申告制なので、「痛いと感じた」と言っているだけだ。
ほんとうは、痛さなんて感じていない。「痛い」ということ以外に、痛いと感じる理由がない場合は、痛さの度合いが、弱いのである。もう、微弱で、ほとんど、ゼロだ。「なんとなく、そんな感じがする」「なんとなく、そんな感じがするような気がする」というレベルの痛さしか感じていない。
「足が痛いと言うと、足が痛くなる。言うから痛くなる」……そうなんでしょうかね。
骨折したら痛く感じるけど、骨折したという物理的な理由があるから、痛いと感じているんじゃないかな? 感じたとあとに「痛い」と言っているのじゃなのかな?
そして、この「言語を理由にする理論」というのは、言語を習得するまえに成り立っていたのかどうかということが問題になる。
「痛い」という言葉の意味と、実際の痛さの感覚が本人のなかでむすびつけられていない場合は、実際に痛さの感覚がしょうじた場合ですら、「痛い」とは言えない。
日本語を習得したあとに、「痛さ」と「痛いという言葉の意味」がむすびついて、痛さを感じたときは、思わず、「痛い」と言うようになったのだ。
痛さを感じるときに、かならず、「痛い」と言うかというと、言わない場合もある。しかし、言わない場合も痛さを感じているのである。
これは、「痛いと言うから痛くなる」という理論では、説明できないことなのである。
これまでの話は、個人が言語を獲得する前の話だけど、人類が誕生するまえはどうなのかという話をしたい。地球の発生のほうが、人類の発生よりも、時間的にまえの出来事だ。
別に、人類が言葉を使い始めて、そして、「地球がある」とか「地球が存在する」とかと言ったから、「地球が存在」するようになったわけではない。
あきらかに、人類が発生するまえに、地球が発生している。あきらかに、人類が言葉を習得するまえに、地球が発生している。地球が発生したという出来事は、人類が言葉を習得するという出来事のまえに発生したことだ。
繰り返しになるけど、「地球が存在する」とだれかが言ったから、地球が存在するようになったのではない。
これは、「言えば、言ったことが現実化する」という理論では、説明できないことなのである。