(1)は都合により省略
「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる」ということについて、考えてみよう。「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる」と言うと、なにか法則性がありそうな感じがするけど、じつは、法則性なんてない。
なにか、明るいことを考えると100%の確率で、明るいことが起こって、暗いことを考えると、100%の確率で暗いことが起こると言っているように、聞こえる。実際、そう言っているのだ。ところが、実際には、暗いことを考えてなくても、暗いことが起こる。
それは、自分の「考え」と外界が一致してないからだ。
自分の考えのなかには、きちがい的な他者の行動や、悪意がある他者の行動が入ってない。けど、実際には、きちがい的な他者がきちがい的な行動をするし、悪意がある他者が悪意がある行動をする。
それどころか、本人の主観としては、悪意がないのだけど、こっちにとっては、迷惑なをこと、命がけでするやつもいる。あるいは、天変地異とか、個人の意思とは関係がない自然現象などがある。この自然現象だって、自分の考えと一致しているわけではない。
そういう意味で、自分の考えとは、一致してないことが起こるのである。
自分の考えとは一致してないことが起こるのが、この世なのである。
ところで、あの言霊主義者だって「よし、この機器を使って、股間をいたくしよう」と思って、股間をいたくしたわけではないのだけど、股間がいたくなるということが発生したとする。その場合、股間がいたくなることが、明るいことか暗いことかと言えば、暗いことなのである。
なので、自分が予想してなかった(暗いこと)が起こる場合がある。
たとえば、体力をうけるとか、体力をつけるためにトレーニングをするということは、明るいことなのである。その機器を使って、実際に股間がいたくなるまでは、股間をいたくするためにやっていたわけではないので、暗いことを考えてなかったのである。
体力をつけよう」と明るいことを考えて行動したのに、暗い結果が待っていた。
股間がいたくなるという暗い現実が発生した。
もちろん、その現実を「暗い現実」だとは考えずに、「明るい現実」だと考えることは、できる。自分にとって、たいしたことでなければそうなる。
けど、一生を台なしにしてしまうような大きなことで、なおかつ、そのあとずっと、継続的その影響をうけることにかんしては、「明るくとらえよう」としても、明るくとらえられないことが(日々)発生する。これ、他人の状態に無関心な人や、他人の状態をうまく想像できない人は、出来事は一瞬ですむと思っているところがある。
「過去の出来事は関係がない」とか「過去の出来事は、現在に影響をあたえない」と考え人は、自分に対してだけそう思っておけばいいのに、他人に対してもそう思ってしまう。
今回の「股間がいたくなる」ということは、わりと短期間で治ることだ。その短期間のあいだ、やはり、いたいということで、行動が制限され、自分の行動に影響が出る。それは、なおってしまえば関係がないことになる。しかし、そういうことばかりではないのだ。
けど、「そういうものだ」と思っていると、他者においてでかいこと……影響を与え続けることを、過小評価してしまうのだ。影響を与え続けることも、影響がないことに思えるのだ。影響の大きさというのを、考えない人たちがいる。ようするに、自分の身体に発生している影響はわかるので、重視するけど、他人の身体に発生している影響は、自分にはわからないので、無視してしまうのである。他人における、他人が感じている「出来事の影響」を無視してしまう。
他人の身の上に起きたことは、自分の身の上に起きたことではないので自分には直接影響がない。影響がないことに関しては、根本的な想像力がさがってしまう人がいるのである。まあ、自己チューな人だ。
他人が感じている影響の大きさを考えないで「過去は関係がない」と言ってしまう。過去の出来事が、現在に状態に関係があることもある。
けど、「全体思考」と「単純思考」があわさると、「過去は関係がない」と言い切ってしまう。
話を、「明るいことを考えれば、明るいことが起きて、暗いことを考えると暗いことが起きる」……という文言にもどす。
問題なのは、「暗いことを考えてないのに、暗いことが起こった」ということを、こういうことを言う人たちが、よく認識してないことなのである。「明るいことを考えれば、明るいことが起きて、暗いことを考えると暗いことが起きる」……ということを言う人たちだって、人生において「暗いことを考えてないのに、暗いことが起こった」ということが、かずかぎりなくあったはずだ。
もし、法則性ということを考えるなら、暗いことを考えてないのに、暗いことが起きたということは、「暗いことを考えると暗いことが起きる」ということと、一致しない。
もう、すでに、法則性がないことがあきらかになってしまっている。
「暗いことを考えてないのに、暗いことが起こる」こともあるなら、「暗いことを考えると暗いことが起きる」とは言えない。言えないのに、そういうことが、自分の人生のなかで発生したにもかかわらず、「暗いことを考えると暗いことが起きる」と思っているのである。
ちょっとは、気づこうよ。ちょっとは、気がつこうよ。
明るいことを考えてないのに、明るいことが起こることはある。
そりゃ、別に、ほんとうは、特に明るいことを考えてなくても、楽しいことや、うれしいことがある。
おぎゃーと生まれてから、特に期待してないけど、親と話しているときに、楽しいことがあった。親と遊んでいるときにうれしいことがあった。友だちと、話しているときに、たのしいことがあった。友だちと遊んでいるときにうれしいことがあった」ということがしょうじる。
これをかてにして「明かるいこと」を考えているのだ。自分にとって、いいことを考えているのだ。だから、計画もしてなければ、予期もしてないことについて、楽しんできたのである。それを、考えると「明るいことがあった」ということになるのである。
別に、明るいことを考えて、明るいことが起こることを計画していたわけではないのである。むしろ、そういう意図があると、楽しめなくなることのほうが多い。そりゃ、期待して、期待通りになるときもある。
けど、「明るいこと」を考えれば、100%明るいことが発生するということはない。
「明るいことを考えること」は明るいことが起こることを保証しない。なのに、まるで、法則性があるようことを言い「明るいことを考えると明るいことが起こる」と言ってしまう。「明るいこと」のなかには、「暗いこと」は含まれてない。「起こる」ということのなかには、「起こらない」ということが含まれてない。
なので、明るいことを考えれば、100%の確率で明るいことが起こらなければならないのである。ところが、明るいことを考えても暗いことが起こることがある。あるのだから、ある。それなら、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」とは言えない。
明るいことが起こると考えるまえに、明るいことが起こってなければ、明るいことがなにであるのかについて考えることができないのである。
ようするに、明るいことを考えようと思う前に、人生のなかで、明るいことを経験しているのだ。明るい気持ちになったことを経験している。
それは、特に、「明るいことを考えたから」発生したことではない。
人生のなかで、生まれてから、明るいことを経験してない人は、「明るいこと」を考えることができないのである。なので、「明るいことを考える」ということができる人は、すでに、明るいことを経験したことがある人なのである。明るいことを考えるまえに、明るいことがあったので、明るいことについて考えることができるようになったのである。
この言い方でわかったかな?
発生というものを考えた場合、赤ん坊のときから、なにが明るいことであるか知っていたわけではないのである。経験のなかで、「あれが明るいことなんだな」と思えることが、何回か、何十回か、何百回か何千回か、あった。
なので、「明るいこと」について考えることができるようになったのである。
明るいことについて、考えないと、明るいことが起こらないのであれば、そういうことはないのである。
ようするに、明るいことなんて考えなくても、明るいことは起こる。