長期間の騒音体験は、意欲をさげる……のだ。
しかし、長期間の騒音体験がないものには、それがわからない。
だから、長期間の騒音に実際にさらされたものと、長期間の騒音に実際にさらされてないものとのあいだには、感覚のちがいがある。普通の人は、長期間の騒音に、実際にさらされたことがない人たちなので、「意欲がさがる」ということが、わからない。まったく、まったくわからない。
「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」と思っている。ところが、長期間の騒音は、確実に、意欲をさげる。けど、これは、心理学の実験では、証明できないことだ。どうしてなら、そんな実験は、倫理的にできないからだ。
さらに、「生活騒音」ということを考えた場合「きちがい家族による、はげしい騒音」というのは、あまりにも少なすぎて、カウントされない。
「生活騒音」と言われて思い浮かべる騒音のなかに、きちがい家族による騒音は、入ってない。このきちがい家族という要素が、異常すぎて、カウントされないのだ。
ようするに、一般人が一般的なことを考える場合、きちがい家族による騒音というのは、除外されている。だって、ほかの「うち」には、うちのきちがい兄貴のようなタイプのきちがいがいない。ぼくがあった人のなかで、考えると、ひとりもいなかった。
ひとりだけ、六か月間やられた人がいるけど、六か月間で鳴りやんだ。その人の「兄」は、きちがいではなくて、六か月間でやめることができた。きちがい頭を搭載していると、六か月間でやめるなんてことはできない。不可能なんだよ。
ともかく、実際に、うちのタイプの兄貴が、きちがい的な意地で音にこだわって、その音でずっとずっと、鳴らすということが、人生のなかでなかった人たちが考える「騒音」とぼくが実際に経験してしまった「騒音」はちがう。別のものだ。
だから、普通の人が考える騒音と、ぼくが考える騒音はちがう。ぼくが「ヘビメタ騒音」について言及しているときは、いつも、「騒音」について言及していることになるのだけど、ぼくが体験した騒音と、一般人が体験した騒音がちがうのである。
なので、一般人は、主観的に、きちがい家族による長期騒音が「意欲をさげる」ということを理解してない。
説明しても理解しない。
自分のことじゃないから、理解しない。
自分の人生のなかでしょうじたことではないので、理解しない。
そりゃ、一五年間も鳴っているとか、すくなくても、中学・高校の六年間ずっと毎日、長時間なっているということを経験したことがないと、それがどういう影響をあたえるか自分のこととして経験したわけではないので、自分のこととしてわからない。
ふ・か・ひ・て・き・に・意欲に影響をあたえる。けど、騒音なるものは経験したことがあるけど、きちがい家族による長期騒音を経験したことがない人は、実際、騒音の毎日で、意欲が減退したという経験がない。
どれだけ、意識が命令しても、騒音の毎日で、根本的な意欲が減退するということを経験してない。
「騒音の毎日」と「毎日の騒音」はだいたいおなじ意味だ。
「騒音の毎日」ってほんとうに「騒音の毎日」なんだよ。
かぎりなく、騒音の毎日が続く。
それは、歴史的に言えば、一五年で終了したので、「かぎりなく」ではないと言うことができる。けど、鳴っているさいちゅうの毎日、現在進行形の毎日の場合は、「かぎりなく」という表現で正しいのである。
きちがい兄貴の態度がそういう態度だ。絶対にやめない。殺さなければ、やめさせることができない態度で、ずっと鳴らしている。
殺さなければ、やめさせることができない態度で、一分間鳴らしているなら、その一分間は、鳴らされている一分間だ。この、一分間の連続が、「やる気」や「意欲」をそぐのである。
けど、こういう言い方だと、誤解されるのだ。「やる気」や「意欲」というのは、ただ単なる「やる気」や「意欲」ではなくて、「やる気の根源」や「意欲の根源」を含んだ、「やる気」や「意欲」だ。
なにを言っているかわからないかもしれないけど、「源泉」がやられる。
「もと」がやられる。「やる気」や「意欲」と、ふたつ書くのはめんどうなので、以降、「やる気」と書くことにする。ただ単にやる気が出ないということではなくて、やる気が出るしくみそのものが、やられる。
やる気を出すしくみそのものが、命を絶たれる。
期間の長さというのは、重要だ。
普通「やる気」というようなこと考える場合、短期的なやる気のことについて考えるということになる。けど、この場合のやる気というのは、長期的なやる気も含んでいるる。短期的なやる気についても、言及しているけど、長期的なやる気についても含んでいる。
けど、やる気ということについて考える場合は、どうしても、短期的なやる気について考えてしまう。やる気そのものについて考えるけど、やる気の源泉みたいなものについては考えない。短期的で、根源的なしくみを含まないやる気について考えることになる。