そもそも、あんなでかい音でずっと音楽を鳴らし続けるということが、やってはいけないことなのである。やってはいけないことを、やっている……。これが重要なことなのだ。きちがい兄貴が、毎日毎日、やってはいけないことをやっている。時間なの長さだって半端じゃない。きちがいだから、「やれる時間はすべて鳴らす」というモードでやっている。それが、きちがい兄貴にとって普通のことなのだ。この「やれる時間」から「一分でも、一秒でも」ゆずってやるとなったら、それこそ、大騒ぎだ。絶対の意地でやってやらない。こうなる。ひとつひとつに「いのち」がかかっている。そういう状態だ。けど、やれる限りは……自分が好きなようにやれる限りは、……そう思ってない状態が続く。ずっとやっているのだから、「そういう意地はない」ときちがいは思っているのである。そして、普通にやっている。起きている時間の家、ご飯を食べている時間と、風呂に入っている時間はすべて、自分が思ったとおりの音で、きちがいヘビメタを鳴らすのがあたりまえだと思って、そうしている。「一秒でも、自分が、おとうとにゆずらなければならない」ということになったら、くやしくてくやしくて、発狂してしまうのである。一日に、一秒も、ゆずってないから、そういう気持に気がつかない。本人が気がつかない。「一秒でも、自分が、おとうとにゆずらなければならない」ということになったら、くやしくてくやしくて、発狂してしまうような状態で、ずっと鳴らしている。
この態度が、親父とおなじなのである。おやじが庭に竹を植えるとなったら、絶対の意地で植えるのである。おかあさんが、どれだけ「そんなところに根っこを植えたら、あとあとこまることになるからやめてくれ」「根っこがのびて、いろいろなところに竹がはえるからやめてくれ」と言っているのに、植えてしまうのである。「やめろ」「やめてくれ」と言われたら、発狂して植えてしまうのである。けど、本人は、まったく「意地になったつもりがない」のである。「やめてくれ」と言われてやめなければならなくなったら、くやしくてくやしくて、発狂してしまう状態なのである。きちがいだから、起きているときは、いつもそういう状態なのである。
きちがい親父の「竹」と、きちがい兄貴の「音楽」は、おなじなのである。態度がおなじなのである。感覚がおなじなのである。反応がおなじなのである。認識がおなじなのである。
怒るときは、無意識的な部分で理解して、意識的な部分ではまるで理解してないような状態なのである。だから、相手がこまるとか、相手がこまっているということがわからない。自分の行為で相手がこまっているということは、「どれだけ言われても」まったく残らないのである。だから、いつも「そんなつもりはない」ということになっているのである。言われたときだけ、発狂して、やり続ければ……「やってないこと」になってしまうのである。「そんなことはない」ということになってしまうのである。「やめてくれ」と言われたとき、自分がどういう態度でどういう反応をしたのかということが、自分の感覚のなかにない状態なのである。最初から、時系列的に、認識してない状態なのである。だから、もちろん、相手がやめてくれと言ってきたとき、自分がこういう態度で、こういうふうに否定して、やりきったという記憶がまったくない状態なのである。で、それは、時系列的に、ネスト構造をもっている。その都度、発狂して、やりきっておしまいだ。やりきっておしまいだ。やりきっている。相手が言ったことを、認めずにやりきっている。やった。けど、やったつもりがないのである。そういうことを、相手が言ってきたという記憶がないのである。そして、不都合なことを言われたら、その言葉を意識的には認識しないで、否定したり、無視して、やりきるという態度がおなじだから、毎回そうなるのである。そういうことをやったということ自体が……そのときは、自分にとって不都合なことなのだ。不都合なことは、無意識的なレベルでは、理解するけど、意識的なレベルでは理解せずに……内容は理解せずに、きちがい的に否定したり、きちがい的な意地で無視して、やってしまうのである。そうしたらもう、自分には関係がないことなのである。自分が意地になって、やっていることなのに、自分には関係がないことになってしまっている。これが、こまるんだよ。こういうことの繰り返しなんだよ。