じつは、また、ネズミを窒息死させた日のことを思い出してしまった。俺は、いやだったの! いやなんだよ。
だから、ネズミのことについては、きちがい親父に「俺が処理しなければならなくなるから、ネズミ対策工事をしよう」と言ったのに、きちがい親父が「俺が、(ネズミシートで)つかまえるからいい」ということを言ってきかなかったのである。
ゆずなかった。
で、「親父が入院したら、俺が処理をすることになるから、はやめに工事をしよう」と俺が言ったのに……「俺が、つかまえるからいい」「俺が、つかまえるからいい」と親父が逆上して言って、ゆずらなかった。
「親父が入院することだってあるだろ」と俺が言ったら……「入院しないよ!!」「入院しないよ!!」と親父が逆上して言って、ゆずらなかった。
この、テンションの高さとか、いきおいの強さとかというのが、ほかの人にはわからない。
ようするに、「バレバレのウソを言っているのだけど」本人は、まったくそのつもりがないのだ。
「親父が死んだら、つかまえる人がいなくなるのでこまるだろ。
「俺にネズミ処理をさせるな」と俺が言ったら「死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!」と親父が叫ぶのである。この、きちがい。これ、俺が生まれるまえから(きちがい親父は)そういう状態なんだぞ。きちがい親父は、俺が生まれるまえから、こういう性格なのである。
きちがい親父は、自分にとって都合が悪いことを言われたら、バレバレをウソをついて、その場をおしきろうとする。
しかも、そういうつもりがなくて、「そのとき」はほんとうに、自分は死なないつもりなのだ。「そのとき」はほんとうに、自分が未来永劫、入院することはないと思っているのだ。
もちろん、そんなことはない。入院した。死んだ。
入院したあとすぐ死んだわけじゃないけど、死んだ。「死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!死なないよ!!」と親父が叫んでいたけど、実際には死んだ。
そして、ネズミ処理を俺におしつけた。これが現実だ。叫ぶか叫ばないかのちがいはあるけど、きちがい兄貴もおなじなんだよ。
頭の中で起こっていることがおなじ。
実際、きちがい親父にしても、絶叫バージョンと沈黙バージョンがある。黙りこくって無視する場合もある。
けど、相手が言っていることを否認するという意味でおなじなのだ。バレバレのウソなんだよ。バレバレのウソ。きちがい兄貴は、大きな音で鳴らしたいので、大きな音で鳴らしているということを認めるのがいやなんだよ。そうすると、「普通の音で鳴らしている」「大きな音で鳴らしてない」というバレバレのウソをつく。
けど、本人は、そのとき、ウソをついているつもりが、ほんとうにない。ないんだよ。まったく、ない。この「ウソをついているつもりがない」というのが、病的な部分なのだ。もちろん頭の病気だ。これ、「悪気がない」んだよ。だからこまるんだよ。そして、こういう頭の構造をもっている親や兄弟がいる人が、少ない。
ほとんどの人にとっては、そんなの、「いるかどうかわからない人」だ。「本当に、そんな人いるのかな」と思うような人なのだ。「そんな人いない」と思うような人なのだ。
そして、そういうふうに思う人は、きちがい親父やきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっている人と、一緒に住んだことがない。圧倒的多数がそういう人間に「やられたことがない」人間なのだ。
自分の人生経験のなかで、そういう人にやられたことがない。
なので、「(そういう頭の構造をもっている人と)一緒に住んでいるとどういうことになるかということ」についても、一緒に住んでいる人が理解しているような形で、理解することができない。
バレバレのウソを絶叫するときも、沈黙してきちがい行為を続けてしまうときも、頭の中で起こっていることはおなじなんだよ。だまりこくっているけど、バレバレのウソを絶叫しているのとおなじ。
頭の中で起こっていることはおなじなんだよね。そして、そういうふうにしたということも、今度は認めないのだ。これも、ウソをついているつもりがないんだよ。「やった」ということを認めないときも、ほんとうに「やってない」と思っているわけ。
で、自分の言い分や、自分がやりたいことを押し通してしまう。
だから、何回も言っているのだけど、ネスト構造になっていて、認めるということがないんだよ。
だから、時系列的に何回も同じようなことが発生してしまう。
だって、きちがい的な意地で否定したという事実を、否定してしまうわけだから。たとえば、親父は、「俺がつかまえるからいい」と絶叫して、工事をしようという俺の提案をことわったといこうとを、認めないということになってしまう。
「そうだ」ということを認めるのが都合が悪いときは、バレバレのウソをついて「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」と否定するのである。そのときも、バレバレのウソをついているのだけど、本人だけは、バレバレのウソをつているという気持がないのだ。まったく、まったく、つもりがないのだ。これがこまる。
虐待ということを考えると、暴力があるほうがひどい虐待だということになるだろ。
それから、たとえば、「死なない、入院しないとウソをついて、自宅のネズミ対策工事をしない」ということを罰する法律があるかというと、ない。虐待じゃない。法律にも違反してない。ただ、ウソをついているだけだということになる。
けど、こまるんだよ。実際、親父が入院したあと、ネズミをつかまえて処理しなければならなくなる。この、ネズミをおびき寄せたということだって、きちがい親父が、意地をはって、ほぼ一日中、酒糟がついた魚の切り身を、テーブルの上に置いておくということに、こだわったからそうなる。
「においがすごいから、こまる」と俺が言っても……「におってない!におってない!におってない!におってない!」ときちがい親父は言って、臭覚が正常なら絶対にわかることを否定して、自分のやり方でだしっぱなしにすることに、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、しまわないのである。
だから、こまることになる。じゃあ、自分のうちで、酒糟がついた魚の切り身を二三時間、テーブルの上に置いておくことを禁止する法律があるかというとないのだ。虐待ではないということになる。じゃあ、こまらないのかというと、こまるのである。
そういうトラブルばっかりなのである。
これは、きちがい親父の頭の構造から出ていることだ。そういうふうにスイッチが入って、バレバレのウソをついてしまうのである。バレバレのウソをついて、相手の言い分をはねのけることに、自分の生命をかけてしまうのである。そういう勢いで、否定して、絶対に認めないという状態になってしまうのである。
つねに、そういうスイッチが入っている。そうなるスイッチが入っている。これが、どれだけこまることか、ほかの人はわかってない。「明るいことを考えれば明るいことをがおこり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」……そんなことじゃないのだ。
きちがいが勝手にやりたいことをやると、暗いことが起こるのだ。
家のなかにいるきちがいが、きちがい的な行為をすると、かならず、問題がしょうじるのだ。暗いことが発生するのだ。
「明るいことを考えれば明るいことをが起こり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」というのは、「自分が」明るいことを考えれば、明るいことが起こって、自分が暗いことを考えると暗いことが起こるということを言っている。
きちがい家(け)の状態というのは、そういう状態じゃない。きちがいが、いのちをかけて、ゆずらずに、きちがい行為をすることにこだわってこだわっこだわって、ゆずらないでゆずらないでゆずらないでやりきってしまうから、暗いことが発生するのだ。まったく、ほんとうにわかってないなぁ。
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きちがい親父が、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、酒糟がついた魚を出しっぱなしにするということと、きちがい兄貴が、こだわって、こだわって、こだわって、自分が鳴らしたい音で、ヘビメタを鳴らすということは、構造において、おなじことだ。親父の頭と、兄貴の頭は、この点においておなじ構造をもっているのである。そして、その同じ構造から出てくる態度がおなじなのである。