「生き返ると言えば、生き返る」と真顔で言われているようなものなのである。こまるのである。
「生き返るまで、こころをこめて、何回でも言えばいい」と真顔で言われているようなものなのである。こまる。
「できると言えば、できる。できないと言うからできない。できないのは、おまえのやり方が悪いから、できないだけだ。できると言えば、人を生き返らせることだって、できる。できると言えばできる。生き返ると言えば、生き返る」と真顔で言われているようなものなのである。こまるのである。
みんな、ヘビメタ騒音のことがわかってない。みんな、きちがい兄貴の態度がわかってない。みんな、きちがい兄貴の感じ方がわかってない。きちがい兄貴の、きちがい的な頭の構造が、わかってない。みんな、自分の一番嫌いな音を大音響で何時間も何時間も鳴らし続ける家族がいるという問題について理解がない。だって、みんなには、そんな家族はいなかったから。だって、みんなには、そういう経験が人生のなかでないから。やっている人間が、きちがいなんだよ。やっている人間が家族なんだよ。このふたつがそろった場合のことがわかってない。無視できるわけがないだろ。あんな至近距離で、きちがいがきちがい的な感覚で、きちがい的な態度で鳴らしている、ものすごくでかい騒音を無視できるわけがないだろ。これ、みんな、そういう騒音が鳴っていても、勉強ぐらいできると思っているのだけど、まったくできないのだ。できないというのは、ゼロだ。プラスマイナスゼロ。けど、きちがいヘビメタ騒音で勉強ができない状態というのは、勉強(自体)にかんしても、マイナスなんだよ。大きく大きくマイナスなんだよ。もちろん、勉強以外のことにかんしても、きちがいヘビメタ騒音できちがいヘビメタ騒音で勉強ができない状態というのは、大きく大きくマイナスなんだよ。被害の大きさが、一倍速でわかってないのである。一倍速(いちばいそく)。これ、数秒間で「ヘビメタ騒音で勉強ができない」と言われて「ヘビメタ騒音で勉強ができなかったんだな」と思う時間の長さと、ぜんぜんちがう。実際に経験しているのは、「騒音で勉強ができなかった」という言葉を聞いたということだけだ。実際に、一日のなかで、きちがい家族による、きちがい的な騒音に何時間も何時間もさらされているわけではない。そして、そういう一日が、何年間も何年間も、十数年間も、毎日毎日、続いたという経験を、もっているわけでもない。そういう経験が自分の人生のなかにはなかったのである。そういう毎日が、なかった。そういう、一日のなかでの、時間がなかった。一倍速で、経験してみろ。