2023年12月2日土曜日

そういう意味で、言霊的な解決法は、「カス」なのである。

 たとえば、ある子どもの母親が死んだとする。そのこどもに「生き返ると言えば、生き返る」と教えてあげることは、いいことなのかわるいことなのかということだ。

あるいは、そもそも、生き返ると言えば、生き返るのかどうかということが問題だ。

言霊主義者は、「生き返る」と言うのだ。

だから、役に立つ助言をしてやったということになる。

けど、じゃあ、その子どもが、一所懸命、「生き返る、生き返る」と言ったとしよう。

けど、生き返るか?

生き返らない。

そういう意味で、言霊的な解決法は、「カス」なのである。

言霊主義者は、「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言っているけど、どうしてそんなことが言えるのか?

ぼくは、魔法的解決法と言ったけど、魔法的解決法は、カス方法だから、意味がない。意味がない方法だから、カス方法だ。

たとえば、消しゴムが、机の上から落ちたとする。言霊の力だけで、この消しゴムを床の上から、机の上にもどすことが可能だろうか?

「消しゴムは、机の上にもどる」とか「消しゴムは、机の上に、移動する」とかということを言えば、机の上に、消しゴムはもどるのか?

もし、言霊的解決法が「カス」ではないとしたら、もどらなければならいのである。

言っただけで、現実化するのだから、なにも手をくわえなくても、言っただけで、消しゴムが、机の上にもどらなければならない。

ところが、 「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってる人だって、言っただけでは、机の上に、消しゴムが移動しないことを知っている。言ったって、移動しない。言ったって、生き返らない……。

知っているのだ。

けど、あたかも、言霊的解決法が「カス」でないようなことを言う。あたかも、言霊的解決法が有効であるようことを言う。

言ったことが現実化するなら、消しゴムは、言っただけで、机の上に移動しなければならないのである。言えばそうなるのだから、言えばそうなる。言ってもそうならないのであれば、「言えばそうなる」という理屈がまちがっていたということだ。

「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってる言霊主義者だって、普通に、からだを動かして、消しゴムを、机の上にもどすのである。

言霊の力を使うのではなくて、身体の力を使って消しゴムを、机の上にもどすのだ。身体の力を使った場合は、物理法則に合致しているのである。なので、物理法則は成り立っているけど、言霊法則は成り立っていないということになる。

言霊主義者は、条件のちがいを無視する。

たとえば、全身不随で、からだを思うように動かせない人が、いるとする。この人がベッドの上に横たわっていたとしよう。この人は、だれかが、おとしたものを、もとの位置にもどそうと思っても、自分の身体を使ってもとの位置にもどすということができない。

こういう人に、「言えばそうなる」と言霊主義者は言うのだ。こういう人に「できないと言うから、できない。できると言えばできる」と言霊主義者は言うのだ。


言霊主義者にとっては、言霊は絶対だ。「言えば、言ったことが現実化する」というのは、絶対の真実なのだ。

なら、言えば、もとの位置にもどるはずだ。

けど、言ったって、もとの位置にもどることがない。

ぼくが、「死」について語ったとき、「死」というのは、特別だから、言霊がきかない……と思った言霊主義者がいると思う。

けど、たとえば、消しゴムをもとの位置にもどすことさえできないのだ。なにか落ちたものを、もとの位置にもどすことさえできないのだ。これが、言霊の力だ。どれだけ言ったって、もとにもどらないものは、もとにもどらない。

ところが、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」から「言えばいい」ということを、他人に言う。本人は、すごくいい助言をしたつもりだ。

けど、いつもいつも、条件を無視しているのである。

言霊主義者が、言霊は絶対だと思うのは、たとえば、消しゴムをもとの位置にもどそうと思ったとき、言霊の力を使わずに、身体の力を使っているから、「言霊は絶対だ」と思ったままでいられるのだ。

言霊主義者は、現実を見ないのである。

言霊主義者がやってることは、こういうことだ……。

たとえば、消しゴムが机から、床におちたとする。言霊主義者は「消しゴムが、机の上に移動する」と言ったあと、自分の身体を動かして、消しゴムを机の上に移動するのである。

その場合、実際には、言霊の力によって、消しゴムが、机の上に移動したのではない。

身体を使って、物理的に、消しゴムを机の上に移動した。そして、「消しゴムが、机の上に移動すると言ったから、机の上に移動した」と思うのだ。「そして」というのは、まちがいではない。本来なら「ところが」と書くべきところだ。けど、言霊主義者の感覚を重視して書くと「そして」が適切だということになる。

言霊主義者は「あと」と「から」を混同しているのだ。

本当は、言ったあと「そういうことが起こった」「その通りになった」だけなのに、言ったから「そういうことが起こった」「その通りになった」と誤解する。

消しゴムの例だと、わからないかもしれないけど、イチローというプロ野球の選手は、子どものころ「プロ野球の選手になる」と言ったから、プロ野球の選手になったという説明は、じつは、消しゴムの例とおなじなのである。

「言ったあと」と「言ったから」を混同しているだけだ。

イチローは、言ったあと、なにをした?

野球の練習をしたのでしょ。それなら、野球の練習をしたから、プロ野球の選手になったと言ったほうが、正確だ。まあ、練習だけではなくて、試合にも出た。そして、活躍した。だから、プロ野球の選手になったんでしょ。

「プロ野球の選手になる」と言った子どものうち、どれだけの子どもが、プロ野球の選手になるのか?

「言えば、言ったことが現実化する」と言うのであれば、もちろん、全員が、プロ野球の選手になってなければおかしいのである。言ったのに、現実化しなかった。おかしいじゃないか。

言霊主義者というのは、いままで見てきたように、「実際の行動」を無視してしまうのである。そして、「実際の行動」の結果、そうなったのに「言ったから、そうなった」と現実を捻じ曲げて解釈してしまうのである。

そうなると、条件によってできなくなった人は、こまるのである。

ある条件でできない人にむかって、「できないと言うからできない」とこれまた、的がはずれたことを言う。言霊主義者は言う。

全身不随の人が動けないのは、「動けない」と言ったから、動けないのではなくて、ほかの物理的な理由で動けないのである。

たとえば、神経線維を構成する細胞と、ある種の毒が(物理的に)むすびついてしまったので、神経線維を構成する細胞が、死に、動けない状態になったのだ。

これ、動けないという条件がある。そして、そういう毒も、毒を体内に入れてしまったという意味で条件なのだ。入れてしまったあとのからだの条件を無視して、「動けない」と言ったから、動けないのだと、幼稚な判断をくだしてしまうのが、言霊主義者なのである。

この判断がまちがっているから、ある種の条件をかかえている人を、くるしめるのである。

だいたい、条件を無視して、「言えばそうなる」ということ言うということ自体が、問題だ。なぜかというと、条件を無視して、まとはずれな助言をすることになるからだ。

『条件を無視された』ということは、無視されたほうは、『わかる』。

だから、不愉快なのだ。

さらに、「言ったからそうなった」という決めつけが、不愉快だ。不愉快だ。

まちがった決めつけをしているのだから、そうされたほうは、誤解をうけたことになるので、不愉快な気持になるのだ。

じゃあ、言霊主義者にこういうことを説明すれば、言霊主義者が納得してくれるかというと、納得してくれないのだ。言霊主義者というのは、自分のことに関しては、矛盾を無視している。

床に落ちた消しゴムですら、「言っただけ」ではもとの位置にもどらない。これが現実なのである。だから、「言えば、言ったことが現実化する」という言霊理論はまちがっているということになる。普段、言霊主義者はこの矛盾を無視している。

ほんとうは、身体を動かして、消しゴムをもとの位置にもどしているのに、自分は「言霊」によって、消しゴムをもとの位置にもどすことができると思っているのだ。

こういう、幼稚な誤解。

こういう幼稚な無視。

無視をするな。

自分が、普段、言霊的な解決法を選択してないということに、いいかげん、気がつけ。

どうして、言霊的な解決法を選択しないかというと、言霊なんて成り立ってないからだ。言霊的な解決法は選択できないのである。しないのではなくて、できないのである。できると言うのであれば、死人をよみがえらせ、身体を使わずに、消しゴムの位置をもとにもどしてみろ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。