たとえば、ある子どもの母親が死んだとする。そのこどもに「生き返ると言えば、生き返る」と教えてあげることは、いいことなのかわるいことなのかということだ。
あるいは、そもそも、生き返ると言えば、生き返るのかどうかということが問題だ。
言霊主義者は、「生き返る」と言うのだ。
だから、役に立つ助言をしてやったということになる。
けど、じゃあ、その子どもが、一所懸命、「生き返る、生き返る」と言ったとしよう。
けど、生き返るか?
生き返らない。
そういう意味で、言霊的な解決法は、「カス」なのである。
言霊主義者は、「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言っているけど、どうしてそんなことが言えるのか?
ぼくは、魔法的解決法と言ったけど、魔法的解決法は、カス方法だから、意味がない。意味がない方法だから、カス方法だ。
たとえば、消しゴムが、机の上から落ちたとする。言霊の力だけで、この消しゴムを床の上から、机の上にもどすことが可能だろうか?
「消しゴムは、机の上にもどる」とか「消しゴムは、机の上に、移動する」とかということを言えば、机の上に、消しゴムはもどるのか?
もし、言霊的解決法が「カス」ではないとしたら、もどらなければならいのである。
言っただけで、現実化するのだから、なにも手をくわえなくても、言っただけで、消しゴムが、机の上にもどらなければならない。
ところが、 「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってる人だって、言っただけでは、机の上に、消しゴムが移動しないことを知っている。言ったって、移動しない。言ったって、生き返らない……。
知っているのだ。
けど、あたかも、言霊的解決法が「カス」でないようなことを言う。あたかも、言霊的解決法が有効であるようことを言う。
言ったことが現実化するなら、消しゴムは、言っただけで、机の上に移動しなければならないのである。言えばそうなるのだから、言えばそうなる。言ってもそうならないのであれば、「言えばそうなる」という理屈がまちがっていたということだ。
「言霊は絶対だ」「言霊にすごいチカラがある」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってる言霊主義者だって、普通に、からだを動かして、消しゴムを、机の上にもどすのである。
言霊の力を使うのではなくて、身体の力を使って消しゴムを、机の上にもどすのだ。身体の力を使った場合は、物理法則に合致しているのである。なので、物理法則は成り立っているけど、言霊法則は成り立っていないということになる。
言霊主義者は、条件のちがいを無視する。
たとえば、全身不随で、からだを思うように動かせない人が、いるとする。この人がベッドの上に横たわっていたとしよう。この人は、だれかが、おとしたものを、もとの位置にもどそうと思っても、自分の身体を使ってもとの位置にもどすということができない。
こういう人に、「言えばそうなる」と言霊主義者は言うのだ。こういう人に「できないと言うから、できない。できると言えばできる」と言霊主義者は言うのだ。
言霊主義者にとっては、言霊は絶対だ。「言えば、言ったことが現実化する」というのは、絶対の真実なのだ。
なら、言えば、もとの位置にもどるはずだ。
けど、言ったって、もとの位置にもどることがない。
ぼくが、「死」について語ったとき、「死」というのは、特別だから、言霊がきかない……と思った言霊主義者がいると思う。
けど、たとえば、消しゴムをもとの位置にもどすことさえできないのだ。なにか落ちたものを、もとの位置にもどすことさえできないのだ。これが、言霊の力だ。どれだけ言ったって、もとにもどらないものは、もとにもどらない。
ところが、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」から「言えばいい」ということを、他人に言う。本人は、すごくいい助言をしたつもりだ。
けど、いつもいつも、条件を無視しているのである。
言霊主義者が、言霊は絶対だと思うのは、たとえば、消しゴムをもとの位置にもどそうと思ったとき、言霊の力を使わずに、身体の力を使っているから、「言霊は絶対だ」と思ったままでいられるのだ。
言霊主義者は、現実を見ないのである。
言霊主義者がやってることは、こういうことだ……。
たとえば、消しゴムが机から、床におちたとする。言霊主義者は「消しゴムが、机の上に移動する」と言ったあと、自分の身体を動かして、消しゴムを机の上に移動するのである。
その場合、実際には、言霊の力によって、消しゴムが、机の上に移動したのではない。
身体を使って、物理的に、消しゴムを机の上に移動した。そして、「消しゴムが、机の上に移動すると言ったから、机の上に移動した」と思うのだ。「そして」というのは、まちがいではない。本来なら「ところが」と書くべきところだ。けど、言霊主義者の感覚を重視して書くと「そして」が適切だということになる。
言霊主義者は「あと」と「から」を混同しているのだ。
本当は、言ったあと「そういうことが起こった」「その通りになった」だけなのに、言ったから「そういうことが起こった」「その通りになった」と誤解する。
消しゴムの例だと、わからないかもしれないけど、イチローというプロ野球の選手は、子どものころ「プロ野球の選手になる」と言ったから、プロ野球の選手になったという説明は、じつは、消しゴムの例とおなじなのである。
「言ったあと」と「言ったから」を混同しているだけだ。
イチローは、言ったあと、なにをした?
野球の練習をしたのでしょ。それなら、野球の練習をしたから、プロ野球の選手になったと言ったほうが、正確だ。まあ、練習だけではなくて、試合にも出た。そして、活躍した。だから、プロ野球の選手になったんでしょ。
「プロ野球の選手になる」と言った子どものうち、どれだけの子どもが、プロ野球の選手になるのか?
「言えば、言ったことが現実化する」と言うのであれば、もちろん、全員が、プロ野球の選手になってなければおかしいのである。言ったのに、現実化しなかった。おかしいじゃないか。
言霊主義者というのは、いままで見てきたように、「実際の行動」を無視してしまうのである。そして、「実際の行動」の結果、そうなったのに「言ったから、そうなった」と現実を捻じ曲げて解釈してしまうのである。
そうなると、条件によってできなくなった人は、こまるのである。
ある条件でできない人にむかって、「できないと言うからできない」とこれまた、的がはずれたことを言う。言霊主義者は言う。
全身不随の人が動けないのは、「動けない」と言ったから、動けないのではなくて、ほかの物理的な理由で動けないのである。
たとえば、神経線維を構成する細胞と、ある種の毒が(物理的に)むすびついてしまったので、神経線維を構成する細胞が、死に、動けない状態になったのだ。
これ、動けないという条件がある。そして、そういう毒も、毒を体内に入れてしまったという意味で条件なのだ。入れてしまったあとのからだの条件を無視して、「動けない」と言ったから、動けないのだと、幼稚な判断をくだしてしまうのが、言霊主義者なのである。
この判断がまちがっているから、ある種の条件をかかえている人を、くるしめるのである。
だいたい、条件を無視して、「言えばそうなる」ということ言うということ自体が、問題だ。なぜかというと、条件を無視して、まとはずれな助言をすることになるからだ。
『条件を無視された』ということは、無視されたほうは、『わかる』。
だから、不愉快なのだ。
さらに、「言ったからそうなった」という決めつけが、不愉快だ。不愉快だ。
まちがった決めつけをしているのだから、そうされたほうは、誤解をうけたことになるので、不愉快な気持になるのだ。
じゃあ、言霊主義者にこういうことを説明すれば、言霊主義者が納得してくれるかというと、納得してくれないのだ。言霊主義者というのは、自分のことに関しては、矛盾を無視している。
床に落ちた消しゴムですら、「言っただけ」ではもとの位置にもどらない。これが現実なのである。だから、「言えば、言ったことが現実化する」という言霊理論はまちがっているということになる。普段、言霊主義者はこの矛盾を無視している。
ほんとうは、身体を動かして、消しゴムをもとの位置にもどしているのに、自分は「言霊」によって、消しゴムをもとの位置にもどすことができると思っているのだ。
こういう、幼稚な誤解。
こういう幼稚な無視。
無視をするな。
自分が、普段、言霊的な解決法を選択してないということに、いいかげん、気がつけ。
どうして、言霊的な解決法を選択しないかというと、言霊なんて成り立ってないからだ。言霊的な解決法は選択できないのである。しないのではなくて、できないのである。できると言うのであれば、死人をよみがえらせ、身体を使わずに、消しゴムの位置をもとにもどしてみろ。