たとえば、明るい気持ちで働いていた漁師が、汚染魚を食べてしまったことについて考えてみよう。この場合、明るい気持ちで働いていたにもかかわらず、汚染魚を食べてしまったことによって、のちに、水俣病と呼ばれる病気になる。もちろん、摂取量は重要だ。そして、摂取量によって、症状が、症状の重さが異なるのである。
暗いことを考えると、暗いことが起こる……と思霊主義者は言っているけど、この場合は、別に暗いことを考えていなかったのに、暗いことが発生している。暗いことを考えていなくても……事前に考えていなくても……暗いことが発生することはある。
というよりも、暗いことを考えていなかったにもかかわらず、暗いことが発生する場合のほうが多い。暗いことを考えていたら、暗いことが発生したというのは、すでに、症状が出て、「これはおかしい」と思ったケースが多い。基本的なことを言ってしまえば、「予兆」がある場合だ。この予兆がある場合にかんしても、暗いことを考えていなかったにもかかわらず、暗いことが起こったのである。
どうしてなら、「予兆」というのは、既に初期症状が出ていることだからだ。暗いことを考えたかどうかではなくて、こういう場合は、毒を摂取したかどうかということが重要なのだ。どうしてかというと、毒と呼ばれている物質が体の中に入って、からだを構成している物質と結びついて、症状を発生させるからだ。
気がつかずに食べたのだから、暗いことは考えてない。
暗いことを考えなくても、暗いことが発生してしまうことがある。
その場合、すでに、「暗いことを考えると暗いことが発生する」という文自体がまちがっているということを意味している。
これも、言霊の「言ったことが、現実化する」という文とおなじ問題をかかえている。暗いことは、明るいことではなくて、暗いことなのだから、暗いことという集合のなかには、暗いことがすべて含まれるのである。現実化するという言葉のなかには、現実化しないということが含まれていないのである。
なので、暗いことを考えた場合、その暗いことは、すべて現実化する(発生する)ということになるのである。そして、暗いことを考えない以上、暗いことは発生しないということを意味しているのである。ところが、暗いことを考えなくても、暗いことは発生するので、文自体がまちがっているということになる。この命題は、『偽』だ。
この、くそまちがっていることを、あたかも、法則性があることのように言ってしまうのである。
こんなのはない。
どうしてかというと、実際に、くるしんでいる人は、過去のある時点で「くるしくなること」を考えたから、そうなったのだと言っているとおなじだからだ。実際、くるしんでいる人が、過去のある時点で、くるしくなることを考えなかったとしたら……「事実」考えなかったとしたら……濡れ衣を着せているということになってしまうのである。
そして、自己責任論と結びつくと、濡れ衣を着せた上に、さらに、責任を追及するということになってしまうのである。つまり、ニセの原因を考えて、当事者(くるしんでいる人)が、そのニセの原因をつくりだしたからそうなったと勝手に断罪し、責任を追及しているということになる。
ひどいことじゃないか。
こんなのが、ポジティブなことなのか?
こんなのが、「明るいこと」なのか?
こんなのが、「善い行い」なのか?