明るいことを考えれば、明るいことがあり、暗いことが考えれば暗いことがあると考える人も、言霊教徒と同じ問題をかかえていると言っていい。明るいことを考えれば、明るいことが起こるというのは、言霊とおなじだ。言うか、思うかのちがいだ。
「思う」というところを「言う」ということにすれば、「明るいことを言えば、明るいことが起こり、暗いことを言うと暗いことが起こる」ということになる。
まあ、ぼくの言葉でいうと「思霊(おもだま)」だ。
為政者(支配者層)が悪い為政者(支配者層)である場合は、非支配者層がどれだけ、明るいことを考えても、暗い世界になる。非・支配者層の人間がくるしむことになるのだ。支配者層が、悪い人たちであった場合、非・支配者層の人がどれだけ、明るいことを考えてもむだだ。
だまされて、誘導されて、非常に暗い世界になる。
支配者層の言うとおりに行動すると、暗い結果が待っているのだ。支配者層が、こつこつと、悪い政策を進めているのに、非・支配者層が現実を無視して「明るいこと」を考えると、まずいことになる。
だいたい、政策批判ができなくなるだろ。悪い政策について考えて、その悪い政策の結果を予想するということは、「悪いことについて考える」ということだ。「それをすると、その結果、ひどいことになるから、やるべきではない」ということは、悪いこと、暗いことを考えなければ、言えないことなのだ。
ところが、現実は、ほうっておいて、ただ「自分の考え」を明るい方向にもっていけば、明るいことが起こると言うのである。
これは、完全にまちがっている。
さらに、暗いことを考えるということを禁止してしまうのだ。これは、口癖教徒とおなじだ。「暗い考え禁止」なのである。そうなると、支配者層が、思ったとおりのことができるということになってしまうのだ。
なぜ、これがわからないのか?
現実を無視して、支配者層にだまされている無垢な?非支配者層の多数派に、「こういうことになる」ということを語りかけなければ、やられっぱなしになってしまうのである。
これは、積極的に、悪い支配者層を支持することになる。
自分のなかだけで、明るいことを思い浮かべれば、明るいことが起こる……こんな幼稚な考えにとらわれて、「どうにかしなけばならない」と思っている人の口をふさぐのだ。
明るい思霊教徒が、ぽけーーっと、自分のなかで明るいことを考えているうちに、悪い為政者が、どんどん悪い政策を進めてしまうのだ。もう、そうなっている。
想起することは重要だけど、「暗い」か「明るい」かで、判断してはいけない。為政者が悪いことをやる場合は、為政者は、庶民にとって「暗いこと」をやるわけだから、その為政者の政策に賛成すると、暗いことが起こるということは、庶民として庶民に伝えなければならない。ところが、明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるという考えにとらわれると、道をあやまることになる。暗い世界に誘導される。