ニコニコしていればいいことがある。どんなにつらくても、ニコニコしていればいいことがある。どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがある。けど、葬式でニコニコしても、いいことはありません。ティー・ピー・オーを考えましょう。……えっ? どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがあるんじゃないの。友人が死んでつらいので、つらくても、ニコニコしていればいいことがあると思って、ニコニコしたら、いいことがあるんじゃないの。ほかの人が友人の葬式にきてくれたということに感謝して、ニコニコしていれば、いいことがあるんじゃないの。どうして、急に、ティー・ピー・オーを考えましょうなんてことになるのか?
ティー・ピー・オーというのは、Time(時)、Place(場所)、Occasion(場合)の略で、けっきょく、「場面にあわせた行動をしましょう」ということになる。どんな場合でも、どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがあるという理論は、場合分けを否定している。条件の影響をうけないという前提がある。なんで、場合分けを考えてない人が、突然、葬式ということになると、「そういう場合は、ニコニコする必要はありません」ということを言い出すのか? どんな場合でも、どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがあるのでしょ。「ニコニコしていれば、いいことがある」という文と、「どんな場合でも、どんな条件でも、ニコニコしていればいいことがある」という文は、意味的に、等価なんだよ。まったく、わかってないなぁ。