「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」というような方法は、法則性があるような感じがするけど、じつは、法則性はない。
そして、ある条件のもとでは、有害なことになる。無害ではすまない。Xをすることで、新たなトラブルがしょうじてしまうのである。
これは、社会のピラミッド構造と、個人を中心した場合の比較優位・比較劣位を無視している。これは、生まれの格差を無視している。
「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」という言葉が、正しいこととして流通してしまうと、生まれの格差『下の下』の人が、くるしい思いをすることになるのだ。
「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」というような方法について語る人は、生まれの格差『下の下』をおいつめている。おいこんでいる。はっきり言えば、自殺においこむ一勢力になっている。
「どんな条件でも、Xをすれば、Yになる」ということが正しいなら……『真』であるなら……そうしないやつが悪いということになってしまうのである。
Xをすれば、問題が解決できるのに、Xをしようとしないからダメなんだ」ということになってしまうのである。
格差の問題が、「その人がしようとしない問題」に置き換えられてしまう。格差がその人のくるしみをうみだしているのに、その人が、くるしみから離脱しようと「Xをしないから」ダメなんだということになってしまう。
Xをするという努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。
何度でも地道にXをする根性がないからダメなんだということになってしまう。
ようするに、性格の問題に置き換えられてしまうのである。