たとえば、言霊主義者が物理法則を無視したことを人にすすめたとする。この場合、あるていど、限定責任がしょうじると思う。たとえば、「ガソリンを飲むと元気になると言って、ガソリンを飲めば元気になる」とある言霊主義者が、他人に言ったとする。ある言霊主義者をAさん、Aさんにその言葉を言われた人をBさんだとする。実際にBさんが「ガソリンを飲むと元気になる」と言って、ガソリンを飲んだとする。その結果、Bさんの健康が害されたとする。その場合、Aさんには、あるていど、責任がしょうじる。しかし、Aさんが、気にしない人だと、まったく気にしない。これは、こころの問題だ。刑事罰の問題は、ここでは扱わないようにする。社会が「それ」に対してどういう罰をかすかということは、問題にしない。あくまでも、Aさんが、どういうふうに感じるかということだけを問題にする。ようするに、良心や道徳観の問題だけを扱うことにする。その場合、Aさんが、自分の行為に関して、限定的な責任を感じないのであれば、責任を感じないのである。悪いことをしたとは思わないのである。ブラック社長が、名前だけ店長を自殺に追い込んだとしても、ブラック社長が、限定的な責任を感じないのであれば、責任を感じないのである。あるいは、ブラック社長が、名前だけ店長を長時間働かせて、名前だけ店長の体調を害したとする。この時も、ブラック社長が、気にしなければまったく気にらないことなのである。
このとき、自己責任論が重要な役割をする。自己責任論がはびこっていると、ガソリンを飲んだのはBさんだから、Bさんの自己責任だということになって、Aさんの責任はまったく問われないということになってしまうのである。他人が、道徳的な側面に関して、Aさんの責任を問わず、Bさんの責任だけを問うということになってしまう。他人というのは、当事者ではない人のことを意味するとする。つまり、Aさんでも、Bさんでもない人のことを意味するとする。自己責任論がはびこっていると、名前だけ店長が自殺したのだから、名前だけ店長の自己責任だということになって、ブラック社長の責任はまったく問われないということになってしまうのである。自己責任論がはびこっていると、名前だけ店長が長時間働いたのは、名前だけ店長の自己責任だということになって、ブラック社長の責任はまったく問われないということになってしまうのである。
自己責任論がはびこっている状態だと、こういう問題をうむ。
自己責任論は、道徳心をマヒさせている。