ほんとうは、格差がある。きちがい的な家族にたたられたやつと、きちがい的な家族にたたられないやつとでは、差がある。元の能力があったって、きちがい家族にやられたら、能力がなくなる。たとえば、きちがい家族が、ヘビメタにこだわるなら、ヘビメタを「自分が思ったとおりの音で鳴らすこと」にこだわりつくすので、すべての道徳が、そいつのこころのなかから、なくなってしまうのである。「鳴らしたい」……から……「鳴らせる」基準に移行してしまうのである。感覚器やこころが、「鳴らせる基準」に移行してしまうのである。そうなると、道徳的に悪いことをしても、なにも感じなくなる。鳴らせる基準で鳴らしているのだから問題がないということになってしまう。鳴らせる基準は、耳を悪くして、耳という感覚器を鈍感にして、成り立たせてしまうのである。そういうことを、器用にできるのが、きちがい兄貴型の気ちがいなのである。無意識問題があるタイプのきちがいなのである。こいつは、どれだけ言っても、まったくゆずらないし、ゆずらなくてもいいと思っているので、ずっとやりきる。相手がどれだけこまっていたって、相手がこまっているということが、完全にわからないのだから、相手をこまらせているつもりがまったく生じないのである。普通は、「言えばわかることなのに」どれだけ言ってもわからないということになってしまうのである。でかい音で鳴らしているということが、都合が悪いことなら、都合が悪いことは、意識が意味を理解するまえに、無意識が排除してしまうのである。そうなると、都合が悪いことを認めずに、やりきることができる。相手をこまらせている」ということも、本人がこまっていないのだから、ぜんぜん気にらないのである。どれだけ言っても、認めないのである。これは、相手が言っている内容を、意識が理解する前に、無意識がはねのけている状態だ。どれだけ言ったって、自分のとの関係で、内容を理解することがないのである。日本語がわかっても、「都合が悪いことを認める」ことはできないのである。認めないということも認めない状態でやりきってしまうのである。もちろん、やりきったとは思ってないのである。相手が反対してきたことをやりきったというつもりは、どれだけ長い時間やったとしても、まったくしょうじない。
ともかく、本当は、家族によって、差がある。ところが、「俺だって苦労した」というひとことで、差がないことになってしまうのである。きちがい兄貴と凡人は、まったくちがう感覚をもっている。無視するときの、しくみがちがう。きちがい兄貴の場合は、無意識がかかわっているけど、凡人の場合は、無意識がかかわってない。きちがい兄貴は、感覚器を無視してしまうけど、凡人は、感覚器を無視しない。はっきり言うけど、凡人は、感覚器を無視することができないのである。「そういうところで」きちがいだから、兄貴は、感覚器を書き換えて無視してしまうのである。そういうふうに、「やりたいこと」が「でっぱっている」のである。これを、脳みそのクセだと言えば、クセだということになるけど、くせだから許されるかというと、ゆるされない。まあ、話がずれるので、「クセだからいいのかどうか」ということについては、ここでは、これ以上、語らないことにする。
ともかく、きちがい家族にやられたことがない人は、「差」を無視してしまう。差を無視するための言語(説明の仕方)というのが用意されている。