どんだけひどいおとで いまさっき、ゴミの青いカゴが出てくるのをまっていたんだけど、やっと出てきた。それで、生ごみを出してきた。だいぶ前から、眠たくなっていたんだけど、青いカゴが出てくるのをまっていた。この時間が、憂鬱なんだよ。さらに、郵便受けにある郵便物がはいっていて、その郵便物を読んで、憂鬱になった。時間を決められて、やらなければならないことができてしまった。これを、パスすることはできない。土地のことで、どうしても必要な作業だ。それでまあ、その日時に起きているかどうかわからないのである。いまの入眠時間から逆算すると、相当にやばい。この状態で、作業につきあわなければならなくなる。眠たいときに、ゴミを出すための作業をしていたのだけど、それが、めちゃくちゃに憂鬱なのだ。特に、朝は、憂鬱だ。眠たい朝は、とてつもなく憂鬱だ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音があったからだ。ヘビメタ騒音が鳴っていた期間のなかで、ぼくが学校に通っていた期間は、約六年と六カ月間だ。この、六年と六か月間がきいているのである。きいている。毎日なんだぞ。毎日。平日は、毎日なんだぞ。これがどういうことかみんなわかってない。どうしてわかってないかというと、きちがい兄貴がいなかったからだ。きちがい的な感覚で、きちがい的なヘビメタを、きちがい的な意地で、鳴らしまくる兄貴というのが、いなかった人ばかりなのだ。俺だけが、そういうきちがい兄貴にやられた。きちがいのやり方というのは、きちがいなんだよ。きちがい親父が、きちがい的な意地で竹を植えたように、なんだろうが、自分にとって不都合な情報は、シャットアウトするんだよ。けど、シャットアウトした気持ちがないんだよ。認識がない。で、こういう状態の人を見たことがないとは、ぼくがなにを言っているのかわからない。これがどういうことなのか、わからない。ともかく、うちには、きちがいが二人いて、普通の家だったら、絶対に、一分間だって鳴らせない音を、きちがい兄貴が毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしていた。その持続が、俺の睡眠に影響をあたえて、睡眠が、俺の日常生活影響をあたえるんだよ。それは、鳴ってない時間も含めてそうなんだよ。きちがい兄貴が、朝も、きちがいヘビメタを鳴らしていた期間があった。つらかった。けど、きちがい兄貴が、朝は、きちがいヘビメタを鳴らしていない期間も、つらかったのである。きちがいヘビメタがない人だって、「俺だって朝はつらい」と言う。けど、つらさのつらさがちがうんだよ。きちがいヘビメタがない、仮面うつ病の人が、「俺だって朝はつらい」と言ったって、きちがいヘビメタが十数年にわたって鳴っていた僕とは、つらさのつらさがちがうのぉ!! で、これは、不可避的なんだよ。で、ほかの人は、不可避的だということがわかってない。実際に、会社や役所に通勤している人が、「俺だって朝はつらい」と言ったって、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ヘビメタがきちがい的な音で鳴っている毎日を、経験してない人の「朝のつらさ」とぼくが感じている「朝のつらさ」ちがうんだよ。だいたい、通勤しているのだから、通勤しているわけで、通勤することができるわけだ。そういうつらさなんだよ。通勤すことがどうしてもできないような体になってしまうようなつらさじゃないんだよ。けど、きちがい兄貴が、その人たちにはいないので、きちがい兄貴というものと、いっしょにすごした、十数年間鳴り、二十数年間がない。そうなると、想像でものを言うしかないということになる。「俺だって朝はつらい」……。実際に、通勤できているのなら、通勤ができるぐらいのつらさなんだよ!! きちがいヘビメタ騒音の六年と六カ月がないじゃないか。土曜も日曜も鳴っているんだぞ。ちなみに、土曜日も、学校に通っていたの!! 土曜は早帰りだった。昼間に帰ってくると、きちがいヘビメタが鳴っていた。うちのドアを開けるのがいやだった。ドアは、だいぶ防音効果があるのだ。どんだけ、ひどい音で鳴っているか、みんなわかってない。「うちのなか」でどれだけひどい音で、きちがいヘビメタが鳴っているのか、みんなわかってない。みんな、わかってないんだよ。毎日繰り返されて、毎日寝不足なのだから、つらいに決まっているんだよ。一日に二時間しか眠れな状態でずっと暮らすのはつらいんだよ。鳴ってない時間も、つらいんだよ。別に朝じゃなくても、ずっとつらいんだよ。ともかく、きちがい的な家族がいない人が、きちがい的な家族がヘビメタ騒音……(自分)にとって苦手な音をものすごい音で鳴らしているということを人生のなかで、毎毎日毎日、何年間も何年間も「つづけて」経験してこなかった人が、「俺だって朝はつらい」というようことを言って、「けど、がんばっている」ということを言って、俺に、「人間は働くべきだ」とか「過去は関係がない」とか「ヘビメタ騒音なんてほんとうにあったのか」とか「そんなのはあまえだ」とかと言ったことは、ゆるせない。ゆるせない。ゆるせない。
「元気だと言えば元気になる」とか「楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っているやつが、「俺だってつらい」ということを言ったとする。これ、本人は、まともなことを言っているつもりなのだろうけど、ぜんぜんまともじゃない。どれだけずれているか本人がわかってないだけだ。「つらさ」の「つらさ」がちがうんだよ。ヘビメタ騒音なかでどれだけ「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないのである。「俺は、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」と言っている時点で、たいしたつらさを経験してないというのがわかる。きちがい兄貴は、かわっている人間なんだよ。とてつもなくかわった感覚の持ち主なんだよ。感覚器を自分の都合のいいように書き換えてしまうことができるんだよ。自分がきちがい的な意地でやったことは、やってないと思うことができる人間なんだよ。そういうきちがいなんだよ。そういうきちがいが、そんなにいるはずがない。どれだけ、きちがい兄貴に、「しずかにしろ」ということを言ったって、きちがいが、言われたときだけ、きちがい的に怒って、それで、はねのけたら、「言われた」ということも含めて、忘れてしまう。認知・認識しない。そういうトラブルがあったということが、わからない状態で暮らしている。そりゃ「やめてくれ」と相手が言ってきて、自分が、相手の言い分を無視してずっと、何時間も何時間もでかい音で鳴らしていたら、トラブルがあったということなんだよ。ところが、トラブルがあったという認知認識が生まれないのである。本人は、怒ったから、怒ったという感覚は、怒っているときだけあるのかもしれないけど、自分がやり通すことができるなら、「なにもなかった」ことになってしまうのである。自動的にそうなってしまう。これは、きちがい親父が、自分の意地をとおして、迷惑行為をやってしまうときの態度とおなじだ。こんなの、きちがいじゃなきゃできないことなんだ。そういう家族がいないやつが、「俺だってつらい朝を経験した」「俺だって朝はつらい」「けど、がんばっている」「いいことを教えてやる」「楽しい楽しいと言えば、どれだけつらくたって楽しくなる」と言いやがる。これ、本人は、いい助言をしてやったつもりなのだろうけど、的外れもいいところだ。ぜんぜん、ちがう。そういう言霊的なことを言えるというのは、ぜんぜんちがう環境で暮らしてきたということなんだよ。
きちがい家族にやられてきた人は……毎日毎日、きちがい構造をもつ家族にやられてきた人は……「楽しい楽しい」と言ったって、楽しくならないことを知っている。必然的に知っている。
きちがい家族が、きちがい感覚で、きちがい的な意地で、ずっと、きちがい的な迷惑行為をしたとする。そういう家族と、十数年間、二十数年間、一緒に住んできた人がいるとする。その人は必然的に憂鬱になる。必然的だ。この必然性がわかってないというのが、おかしいのである。きちがい家族と暮らしてきた人なら、絶対に、憂鬱になるのである。その憂鬱は、「楽しい楽しい」と言えば、解決できるような憂鬱ではないのである。そういう憂鬱ではないということを、知っている。これまた、必然的に知っている。わかってないのは、そういう経験がないからでしょ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」……こんなことを、真顔で言っているやつが経験した、つらさってなんだよ。こんなことを、真顔で言っているやつが経験した、憂鬱ってなんだよ。そんなこと、言えなくなるに決まっているだろ。それがわかってないということは、全部わかってないということなんだよ。
一日に二時間しか眠れないということがわかってない。土曜日、日曜日も、二時間しか眠れないということが、どういうことなのか、わかってない。どんだけはりつめた状態で、普通の人にあわせて暮らしているか、ぜんぜんわかってない。どれだけ体が動かなくなるかぜんぜんわかってない。繰り返しだから、一日目より一〇〇一日目のほうがつらいし、二〇〇一日目のほうが一〇〇一日目よりもつらいのである。そういうことが、ぜんぜんわかってないなぁ。この無理解さが、なんか、きちがい兄貴の無理解さや、きちがい親父の無理解さと似ているのである。「わからなさ」とか「わからない状態」と言ってもいい。こいつらと、きちがい兄貴のちがいは、きちがい行為を毎日してないということだ。きちがい行為をうちのなかでしなかったということだ。たしかに、こいつらは、きちがい行為をしてない。けど、「無理解さ」はおなじだ。「わからなさ」はおなじだ。まるでわかってない。「そんなことであるはずがないだろ」と言いたくなる。そんなことであるはずがない。
この世の雰囲気」というのは、人生の経験と無関係ではない。自分の人生のなかでしょうじた経験と、関係がないことを言っても、自分の感情を支配できるわけがない。自分の感情というのは、実際にしょうじたことが、つくりだしているものなんだよ。とうして、そんなことがわからないのか? 言ったら、言ったとおりの感情になる? わらわせるな。自分の経験を裏切った感情になるわけがないだろ。なったとしたら、きちがい兄貴やきちがい親父ぐらいには、頭がへんだ。
自分の経験とはまったくちがう感情をつくりだすことができる? 言えば、つくりだすことができる? あほなことをぬかすな。