相手の状態を無視するというのは、きちがい親父の特徴だけど、きちがい兄貴の特徴でもある。こいつら、相手の状態がわからない人間なのである。自分の感情しかない人間なのである。相手の状態を理解するということが、頭の欠陥として、ない人間なのである。これは、『相手の様子を読みとることかできない』なんていうなまやさしいものではない。どれだけ、相手が、はきっりと、日本語で、何回も何回も言っても、まるで、日本語がわからないというレベルで「理解しない」のである。自分の気持ちに合致しないことは、きちがい的な意地で無視しやがるのである。あるいは、どれだけ何回、言葉で言っても、意味がまったくつたわってない状態にとどまる。日本語がわかれば、絶対に「言葉としてはわかること」がまったくわからなくなってしまうのである。ちなみに、わからなくなってしまっているということも、無視するので、へんな調子で無視することになる。これ、親父も兄貴もおなじなんだよ。二人とも、相手の状態がわからないし、自分の気持ちに合致しないことは、どれだけ言われても、理解しないのである。この理解しないというのは、わかったけど認めないということではない。日本語として意味はわかったけど、やってやらないということではない。そうじゃないんだよ。きちがい親父やきちがい兄貴の場合は、特殊なんだよ。自分の気持ちに合致しないものは、どれだけ入れても理解しない。日本語が理解できても、自分の気持ちに合致しないことは、言われても、言われたことにならない、のである。
まあ、ともかく、この、言われたことにならないということと、相手の状態がわからないということは、ちがうことだ。けど、両方が合わさって、そういう場面が形成されるのである。出来事が発生する。きちがい兄貴やきちがい親父にかかわると、きちがい兄貴やきちがい親父は「相手の状態がわからない」し「相手の言っていることが、言語として理解できず、言われても、いわれたことになってない」というような「態度」がしょうじる。 普通の人なら、相手の状態がわかるし、日本語がわかれば、日本語で言われたことは、理解できる。ところが、そうじゃないのである。けど、そうじゃないということを……きちがい兄貴ときちがい親父はそうじゃないということを、ほかの誰も知らないのである。だから、ほかの人は、普通の人のイメージで、話の内容を考えてしまうのである。普通の人には、兄貴や親父に関することは、これまた、通じないのだ。普通の人は、「普通の人間」を「理想的な人間」として考えて、「理想的な人間ならこういうふうに反応する」と考えてしまう。けど、きちがい兄貴ときちがい親父は「理想的な人間」のように反応しないのである。
ともかく、相手がこまって、必死になって言ってたって、相手が「こまっている状態だ」ということと「相手が必死になって言ってきた」ということがわからないのである。そして、自分のとの関係がわからない。自分の感情だけしかないのである。自分の感情には、相手の状態は一切合切影響をあたえないのである。自分の感情は、相手の状態とはまったく関係なく、存在していて、相手の状態は一切合切関係がないのである。けど、関係がないとちゃんと理解している状態でもない。ごく普通に、最初からそうなっている。ごく普通に、最初から、相手の状態を読みとることができず、相手が「かかわっている」ことにかんしても、自分の感情しか存在しないという状態で、生きている。